2022年05月29日 日曜日
ジョゼ・パジーリャ監督、ジョエル・キナマン主演の2014年のアメリカ映画「ロボコップ(RoboCop)」
1987年の映画「ロボコップ」のリメイク映画。
オムニコープ社が開発した軍事用ロボットは世界中で配備されていたがアメリカ国内では法律で規制されており、オムニコープ社はアメリカ国内でのロボット導入の為に世論を動かそうと人間と機械を融合させたロボコップを作り出そうとしていた。
デトロイトの刑事アレックス・マーフィは追っていた犯罪者から自動車に仕掛けられた爆弾によって瀕死状態となり、妻の願いでオムニコープ社によってサイボーグ化された。
目覚めたアレックス・マーフィはほぼ機械化された自分の体とプログラムされた意思に戸惑いながらもロボコップとしてデトロイトに配備された。
1987年からのロボコップシリーズ三作を見たので、続けてこのリメイク版「ロボコップ」を見てみたけれど、確かに2014年に真面目にロボコップをしたらこうなるんだろうとは思うけれど、かつてのロボコップ、特に一作目の「ロボコップ」にあった良し悪しのどちらも抜いてしまった様な味気無さばかりを感じてしまっていまいちおもしろくはなかった。
一作目の「ロボコップ」は犯罪者にグチャグチャに撃ち殺されたマーフィがロボコップとして復活し、徐々にかつての自分を思い出しながら人間性を取り戻して行くハードボイルドな話が当時の時代性やロボコップの造形や監督のポール・バーホーベンの悪趣味と悪乗りが見事に混じり合って非常におもしろい映画になっていた。
この「ロボコップ」ではそこら辺は無く、真面目にロボコップとして生き返った男を描き、そこに企業の思惑を描いた話で、2014年のリメイクとしてはこうならざるを得ないんだろうけれど常に地味な話が淡々と進んで退屈ではないけれど弾ける感じがないので物足りなさを感じてしまった。
ロボコップになったマーフィをじっくりと描いてはいるけれど結構説明不足でもあり、完全にプログラムで制御されていたはずのマーフィがプログラムを超える事が何度かあったのだけれど、その理由を詳しく描かない、見せないので急にロボコップがマーフィの自由意志で動く感じで見ていても「?」だったし。
それに、終盤になると急に乗りが変わるのもしっくり来なかった。
それまではオムニコープは大企業の戦略としてはそんなモノかと納得はしながら見れてはいたけれど、終盤になって急にオムニコープを悪者に振って、社長を撃ち殺して終わり…って、何それ?になってしまった。
マーフィが主人公であるものの、以前の「ロボコップ2」「ロボコップ3」でも感じたオムニが話の中心でロボコップの脇役感が強いのもいまいちな部分。
特に役者が主人公のマーフィ役のジョエル・キナマンがいまいち弱く、それはオムニコープの社長役がマイケル・キートン。
デネット・ノートン博士役がゲイリー・オールドマン。
テレビ番組のホスト役がサミュエル・L・ジャクソンと脇役が濃過ぎで、相対的にマーフィが薄く感じられてしまった事もあると思う。
今回のロボコップの見た目もいまいち。
ピーター・ウェラーのロボコップはマスクを取ると人間の顔に機械が埋め込んである様なデザインだったけれど、このロボコップはマーフィの体は脳と顔と肺と右手位しか残ってはいないのに顔や頭を装甲で覆ってしまっているので普段の見た目は人間がボディスーツを着ているだけにしか見えず、マスクを被るとコスチュームを着けた人間のヒーローと変わらないのでロボット感が薄かった。
それにわざわざ全身を黒色にする必要ってあったのかしらん?
全身黒色でマスクの目の部分が赤色って、見た目は悪者だし、デザインも敵側の量産型兵士っぽくてロボコップ感も主人公感も感じなかった。
更にこの黒色ロボコップがバイクで移動するのだからダークナイトトリロジーのバットマンに影響され過ぎ。
まだアクションがおもしろければいいけれど、アクションも微妙。
銃撃戦の見せ方や編集が上手い様には思えず、ロボコップが何処の敵に向かって撃っていて、どの敵を倒しているのかが分かり難い。
しかもロボコップは黒いので動きも分かり難い。
一番いけないと思ったのは、ロボコップと言えば太ももから銃が出て来るのを見たいのに、このロボコップは現れると何時の間にか両手に銃を持って撃っている状態から始まるので太ももからの銃の取り出しが楽しめない事。
過去のシリーズでの有名台詞「Thank You for Your Cooperation.」や「Dead or alive you’re coming with me.」を出してはいるけれど、本当に過去のファンを喜ばせる為だけに入れ込んだ感じで、この台詞が全然印象に残らず流れてしまう様な使い方で台無し。
全体的にこれまでのロボコップで見せて来た見たい見せ場を全てすかしている感じで、意図的なのか、それとも監督がロボコップを大して興味が無かったからなのか、わたしが思うロボコップのつぼを外しまくり。
この映画、「ロボコップ」を2014年にリメイクしたらこうなるんだろうなぁとは思うけれど、余りに真面目過ぎ。
ロボコップに求める旧三作の良くも悪くもな悪乗りや魅せる銃撃戦等が無く、この映画だけの映画なら、まあこういう感じかでそれなりではあるけれど、「ロボコップ」となるとこれまでの「ロボコップ」があるのにこれではロボコップとしては物足りなさ過ぎだった。
☆☆★★★
関連:ロボコップ
ロボコップ2
ロボコップ3
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2022年05月28日 土曜日
フレッド・デッカー監督・脚本、ロバート・ジョン・バーク主演の1993年のアメリカ映画「ロボコップ3(RoboCop 3)」
シリーズ三作目。
オムニ社はデトロイトでの新たな都市開発の為に特殊部隊リハッブを使って住民達を強制的に退去させ、逃げ出した住民達を殺していた。
ロボコップとアン・ルイスは捜査の途中で住民達を攻撃しようとしていたリハッブと出会い、二人は邪魔をしている見なされ攻撃されてアン・ルイスは死亡。
動作がおかしくなったロボコップは住民に連れられてレジスタンスに加わる事になった。
一作目、二作目と続けて見たけれど、三作目はロボコップは最早脇役で何の映画なのか分からなくなってしまっていて大分つまらなかった。
一作目は警官マーフィの死からロボコップとなって復活し、徐々に人間性を取り戻して行くハードボイルドな話で非常に出来が良かったのに、二作目でも既に話はオムニ社の方が中心になってロボコップの話が少なくなり、散漫で退屈だったけれど、この三作目は話はオムニ社と戦う住民レジスタンスがほとんどで、ロボコップはレジスタンスを助けてくれる脇役程の扱いになり、主役が誰なのか分からなくなってしまっている。
そのロボコップ以外の話も、リハッブはやりたい放題でどれだけ人を殺しているんだ?なのに何も問題無く進んでいたり、シリーズお馴染みのオムニ社はやたらと犯罪者を使って権力や治安を守ろうとする馬鹿さ加減だし、そのオムニ社は買収されて親会社となったカネミツ・コーポレーションからアンドロイドのオートモを導入したり、何でここまで馬鹿さ満開のオムニ社が権力を握れているのかがさっぱり分からない。
これまでのロボコップの相棒だったアン・ルイスは序盤で行き成り死亡してしまったのだけれど、相棒の死を使ってロボコップの何かを描くなら分かるけれど、それもほとんどなく、シリーズを通しての相棒のこの死の意味って何?
モーフィングを使った映像でアレックス・マーフィの妻の顔からアン・ルイスの顔になり、そこからマリー・ラザラス博士の顔になるのもいまいち意味が分からなかった。
妻をアレックス・マーフィが愛していたのはこれまでも描かれていたけれど、アン・ルイスは相棒以上のモノは描かれていないし、そもそも相棒としてのやり取りや想いもほとんど描かれてなかったし、マリー・ラザラス博士に対する感情もマーフィは好きだったって言う事なの?
それも描かれていないのでよく分からず。
アン・ルイス自体もシリーズ三作通して出てはいたけれど、マーフィとの関係も薄かったしで、この死亡でもそれ程の哀しみが無かったし。
アン・ルイスを演じていたナンシー・アレンが早い段階で撮影から抜けた感じしかしなかった。
この三作目でのロボコップは左手をライフルやロケットランチャーに付け替えたり、バックパックを装備して空を飛んだりしたのはおもしろかった。
最終作でのパワーアップは流れ的にもそうだろうなぁ。
それに二作目でロボコップの色がやたらと青味がかっていたけれど、そこから一作目の様な銀色と言うか、金属色に戻したのは好判断。
一方で敵が全然駄目。
ロボコップと言えば、一作目のED-209は造形が抜群で、だけれどポンコツだったり、二作目のロボコップ2はまあそれなりではあったけれど、今作の敵オートモは見た目は人間のアンドロイドで、これまでのごつい機械感溢れた兵器に比べたら異質過ぎだし造形的なおもしろさが全く無かった。
それにこのオートモ、終始不気味な雰囲気だけは溢れているのにロボコップと戦うと弱過ぎで直ぐに破壊されてしまいロボコップとの対決がまあしょうもない。
そもそもロボコップの攻撃は銃が基本なのにオートモは銃を使わず刀で攻撃って、初めからロボコップに勝てる気が全くしないんだけれど。
しかも、最後のオートモには何故か自爆用の核爆弾が装備されており、リハッブの隊長が側に自分がいるのに核爆弾を起動させているという訳の分からない装備と行動をして無茶苦茶過ぎる。
役者は、直ぐに退場してしまったアン・ルイス役のナンシー・アレンと、ウォーレン・リード巡査部長役のロバート・ドクィと、オムニ社の副社長のドナルド・ジョンソン役のフェルトン・ペリーがシリーズ三作に登場しているお馴染みの面々だったけれど、フェルトン・ペリーは一作目と比べると凄く老けている印象だった。
この映画を見ていて、序盤でロボコップが出て来た時に「あれ?声が何か違う…?」と思って調べたら、一作目、二作目のピーター・ウェラーではなかったとは気付かず驚いた。
ロボコップがヘルメットを取って役者が顔を出しても結構ピーター・ウェラーっぽい顔で、ロバート・ジョン・バークがピーター・ウェラーと似てなくもない気はするけれど特殊メイクでピーター・ウェラーに似せたのかな?
脚本には二作目に続きフランク・ミラーが入っているけれど、二作目ではフランク・ミラーが書いた元々の脚本からは大きく違っていて思う様な出来にはならなかったはずなのに、フランク・ミラーが戻って来たのは非常に不思議。
二作目で出来なかった事を三作目でやろうとしたのだとは思うけれど、やっぱりこの三作目でも同じく大幅に変更されたらしく、結局フランク・ミラーはこれで映画界から遠退いてしまったらしい。
ハリウッド映画って相当面倒臭そうだし、シリーズを製作していたオライオン・ピクチャーズって1992年には破産しているんだよなぁ。
この映画、シリーズ三作目の最終作でロボコップをガジェット的に発展さたのは良かったと思うけれど、それ以外が本当に駄目駄目。
ロボコップの哀しみは何処かに置いて来てしまい、誰が主人公で何を見せたいのか何だかよく分からない話に、ロボコップと敵との戦いもつまらないという、見たいロボコップが無い映画になってしまって、これじゃあシリーズ終わってしまうよな…な映画だった。
☆★★★★
関連:ロボコップ
ロボコップ2
ロボコップ(2014年)
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2022年05月26日 木曜日
アーヴィン・カーシュナー監督、ピーター・ウェラー主演の1990年のアメリカ映画「ロボコップ2(RoboCop 2)」
シリーズ二作目。
デトロイト市のオムニ社に対する借金がかさみ、オムニ社がデトロイト市の支配権を狙っていた。
デトロイト市警がストライキを行った為に町中は犯罪が溢れてしまい、オムニ社は新たなロボコップ2号を開発していたが失敗が続いており、オムニ社が雇った心理学者から新たなロボコップ製造に犯罪者の脳を使う事が提案され、ロボコップが追っていた麻薬「ヌーク」を牛耳る犯罪者ケインの脳が使われる事となった。
一作目の「ロボコップ」に続けて見てみたけれど、一作目が非常に良かった分なのか、この二作目は出来がいまいちよくなかった。
一作目がロボコップの誕生と元の人間性を取り戻す哀しい物語で非常に良く出来た映画だったのに、この続編は結局何処を目指して何を見せたいのかがよく分からず。
序盤でアレックス・マーフィの妻が出て来て最早自分はロボコップだと言う哀しい場面はあったり、プログラミングされ直されて変なロボコップになってしまうという、やはりマシンなロボコップを描いたりもしているのだけれど、中盤以降はオムニ社とロボコップ2の話ばかりになり、結局ロボコップがロボコップ2を倒してお終いというだけで終わって、ロボコップの話としては非常にお座なり。
一作目はずっとロボコップを描き、ED-209を破壊して、黒幕を倒して、「マーフィだ」で自分を取り戻したという上手い幕切れだったのに、今回は終盤はほとんどオムニ社側の話ばかりでロボコップはほぼ何も描かれず「我慢我慢」で終わりって何じゃそりゃ?
この映画はあちこちお座なりだったりするけれど一番よく分からないのが心理学者のジュリエット・ファックス。
薬中の犯罪者を使えばロボコップ2がああなるのは分かり切っているのに、どうしてそこまで犯罪者にこだわっていたのか不明。
全然背景が描かれないのでこの人物はただ頭のおかしい人でしなかった。
そう言えば、一作目の最後で相棒のアン・ルイスが撃たれて死んでしまったと思っていたのだけれど、この続編では普通にいて、一作目のその後は何も触れられていなかったのも気になった。
脚本にフランク・ミラーが入っているのに何でこんなに話が散らばっていて、ロボコップなのにロボコップが全然描かれない退屈な話になっているのだろう?と思ったら、フランク・ミラーの初稿は企業ファシズムに重点が置かれいてフランク・ミラー的なハードボイルドになっていたらしく、それにオライオン・ピクチャーズが難色を示してウォロン・グリーンに書き直させたらしく、フランク・ミラーの本来の脚本とは大分違った物になったらしく、更に元々監督だったティム・ハンターが撮影開始の近くで降板し、引き継いだアーヴィン・カーシュナーとフランク・ミラーが撮影中まで脚本を直していたらしく、更にオライオン・ピクチャーズの意見が強くてアーヴィン・カーシュナーやフランク・ミラーや俳優の意見を反対してロボコップはモンスター位で十分としか思っていなかったらしいのでこの様な出来になったらしい。
フランク・ミラーはこの脚本は結構悪く言っているみたいで、2003~2006年に元々の「ロボコップ2」の脚本と「ロボコップ3」用のアイデアを使って「Frank Miller’s RoboCop」のアメコミを出版しているから、よっぽどの不満が残っていたんだと思う。
それと気になったのはロボコップが青くなった事。
銀色というか金属そのままな感じの一作目のロボコップの方が良かった。
青色が結構まだらになっていたし。
映像では、フィル・ティペット率いるティペット・スタジオのストップモーションアニメーションは良い。
ロボコップ対ロボコップ2の場面はおもしろいよなぁ。
ただロボコップ2が上半身がデカくて短足な感じなので、一作目のED-209程の印象は残らなかった。
アクションだと、ロボコップが目で敵を補足しないまま、あちらを向いたまま銃を撃つ場面があったけれど、これが中々良いのと、映画「リベリオン」のガン=カタを思い出してしまった。
役者は、一作目もそうだったけれど犯罪者のボス役は今回もはげたおじさんなのは何でなんだろう?
オムニ社の会長を再びダン・オハーリーが演じていたけれど、前回は悪役というよりは部下を分かっていない無能な上司の感じだったのに、今回は欲剥き出しの悪い黒幕になっていたのがちょっと違和感はあった。
この映画、一作目のおもしろさがあった分だけ悪い所が多々目につき、しかも全編で間延びしていて結構退屈してしまった。
二作目でこれだけ落ちてしまうとはなぁ…。
オライオン・ピクチャーズが目先の金もうけに走り過ぎて公開を急ぎ過ぎたんだと思うけれど、もっと時間をかけて練っていれば全然良い映画になっていただろうに…と悔やまれる続編。
☆☆★★★
関連:ロボコップ
ロボコップ3
ロボコップ(2014年)
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2022年05月21日 土曜日
ロバート・ゼメキス製作・監督、ジョディ・フォスター主演の1997年のアメリカ映画「コンタクト(Contact)」
カール・セーガンのSF小説「コンタクト」が原作。
天文学者のエリナー・アロウェイは地球外知的生命体を探るSETIプロジェクトを行っていたが、ある日ヴェガから発信された人為的な信号を見付け出した。
それを知ったアメリカ政府はプロジェクトを政府の下に置いて調査を進めると信号の中には膨大な情報が隠されていた事が分かった。
その情報は謎の装置の設計図であり、その装置はヴェガへの移動装置かもしれない事が分かり、世界各国が協力して装置を作り上げた。
わたしは確か昔に一度見た様な気がするけれど全然覚えておらず、改めて見てみると地球外知的生命体らしきモノとのファースト・コンタクトを描いたハードSFではあるけれど、結構何じゃそりゃ?な展開が多く、終盤になると自己啓発的な信仰ファンタジーになるから記憶に残らなかったんだと気付いた。
序盤から主人公のエリーの生い立ちや研究に対する理由をじっくりと描いているのはいいんだけれど、それでもエリーに対する共感性が無いのは、何の実績も出していないのに絶対的な自信だけで他人を説得出来ると思っているのがついていけないし、説得する場面で直ぐ切れちゃうしで、ずっと主人公に乗って行けず。
出会ったパーマー・ジョスとその日に寝ちゃうのは幼い時に両親を亡くした寂しさからかと思ったけれど、別に他の男とはそんな事が描かれず、何で彼だけ?だし、このパーマー・ジョスとの恋愛関係も微妙でおもしろくなく、単に科学と宗教という対立構図を入れる為にパーマー・ジョスと行き成り理由も無く寝てしまっていたり、彼が存在している様に思えてしまった。
謎の信号を受信してからの謎解きは結構おもしろかったものの、そこら辺りからは映画の展開の為の展開みたいな事が多くなってドンドンと覚めて行ってしまった。
信号を分析して出て来た情報は平面ではなく立体に組み合わせるという謎解きの為の手間をかけた仕掛け。
移動装置なのかどうかを機械工学の専門家ではなく天文学者と議論している政府首脳達。
もしもヴェガに行って科学技術が高度に発展したヴェガ人が人間の姿とは全く違う、例えばベチョベチョの流動体生物だったり、ヒューマノイドでも見た目が悪魔みたいだったら特定の信仰がある人間だと危険な言動もあるかもしれず相当に問題が出て来ると思うのに信仰の無い人間では駄目というヘンテコな基準。
これだけ注目されて議論も出ている移動装置の実験なのに、移動装置へ体に爆弾巻いて簡単に侵入出来てしまっているザル過ぎる警備。
どれだけの作業員を動員して、どれだけの膨大な資材を搬入したのかなあれだけの巨大な移動装置を外部に全く知られずに秘密裏に北海道に建設していましたという都合の良過ぎる後出しじゃんけん。
時空移動しているなら何らかの変動の痕跡のデータがあるはずだし、球体の表面の状態の分析とかも普通はするはずだし、今度は無人で再実験とかもするのが普通なのに、それすらしていないのか、それとも単に描いていないだけなのかで主人公は嘘つきとして攻められる展開の為の展開。
今までの防衛大臣が急に辞任して公聴会で主人公を追い詰めるという分かりやすい悪役等々、展開の為に何じゃそりゃ?な事が結構多くて真剣に見ていなくなってしまっていた。
終盤の移動装置でヴェガに行く時も、何故か乗っている球体の内側が透けだすとかは完全に映像的な見た目を優先して後ではそこには一切触れないし、移動中に何が起こるか分からないのに主人公はシートベルト外して方位磁石を取りに行ってしまうし、それで座っていた椅子が壊れたけれど、この壊れた椅子の事も後では一切触れず、実際に椅子が壊れているのか、椅子が壊れていないのかで主人公の妄想だと思っているのかも描かないし、実際に椅子が壊れていたなら主人公以外はあの一瞬で何らかの事情で大丈夫なはずに設計したシートベルトが外れて椅子が壊れたと思っているの?とか何も描かれずで酷い投げっぱなし。
ヴェガ人も話しやすい様に主人公の記憶を覗いて父親の姿にして、何にも説明せずにバイバイとか、まあ言いたい事の為の都合の良さったらない。
これって、例えば謎のメールをたまたま受信した人に自分で飛行機作って私の家までやって来いというメッセージを送って、実際にその人がやって来たらとにかく帰れ!と言って追い出すのと大して変わりなく、それは意味不明だし、頭おかし過ぎるとしか思わないし。
何より移動装置よりもまず通信装置じゃないの?
移動装置を作らせる理由は、通信装置で相互で意思の疎通取れてしまったら話が終わりだし、移動装置を元々持っているヴェガ人がやって来る訳でもなく、わざわざ地球人をやって来させて、それを曖昧にさせないといけないからの移動装置でしかないし。
結論的な「一人じゃない。孤独じゃない」というのも臭過ぎるし、科学と信仰は変わらないと言う為に徹底的に情報収集と分析をしない、情報収集をしたのかすら見せない都合のよさで、やっぱりハードSFではなく、それが言いたい為の自己啓発モノにしか見えず。
この映画、入りが現実にもありそうなハードSFから入ったのに段々と言いたい事や展開が優先された何だかなぁ…な展開になってしまってドンドンと覚めていってしまった。
そんなに地球外生命体は神秘でないといけなく、人間は自己啓発に向かわないといけない理由がよく分からなかった。
☆★★★★
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2022年05月20日 金曜日
インドゥジヒ・ポラーク監督・脚本、1963年のチェコスロバキア映画「イカリエ-XB1(Ikarie XB-1)」
スタニスワフ・レムのSF小説「マゼラン雲」が原作。
2163年。宇宙船イカリエ-XB1は生命体を見付ける為にアルファ・ケンタウリへと発進した。
Amazon プライムビデオで配信が終わりそうで、全く聞いた事も無い古いSF映画への興味で見てみたけれど、これが1963年の映画と考えると物凄い映画だった。
乗組員達は老若男女で構成され、食事をしながら冗談を言い合い団らんしていたり、若者は恋をしていたり、運動施設があったり、チェスをしたり、映画を見たり、犬をペットで飼っていたりと、科学技術が発展した宇宙探査での日常を描くって、この時代にこれをしている事もそうだし、一本のSF映画でこれをあえて見せるって凄い事。
長期宇宙滞在時の妊娠や出産も描いているし、この時代を考えると相当先進的。
この乗組員が大勢いての日常ってスタートレックっぽいなぁ…と思って見ていたけれど、後から知ったのはどうやらこの映画がスタートレックに影響を与えたらしい。
確かに、長期間の宇宙探査の途中で謎の宇宙船に出会ったり、不可思議な出来事にあって問題が起きるってスタートレックだし、イカリエ-XB1のブリッジまでの移動手段がターボリフトっぽいし、通路が封鎖された時はジェフリーチューブの様な通気口を使ったりとかもスタートレックでよくある出来事だし。
途中に遭遇した人工物が地球外の知的生命体の物かと思ったら既に地球人が過去に送り出した宇宙船だったという捻りもある出来事に、それが20世紀に出発した宇宙船で、20世紀の悪しき兵器で自滅しているという批判も入れていて非常にSF的な要素も入っている。
謎のダーク・スターからの放射線によって乗組員が怠惰と眠りに襲われるというのは今まで知らない新たな宇宙での困難だったのもおもしろかったし、この放射線で乗組員が精神的におかしくなって騒ぎを起こし、宇宙船を乗っ取ろうとすると言うのは今でも宇宙モノSFの定番だけれど、これを既にこの時代にしていたのか。
この場面での最後に「お前は人を殺すのか?」で説得されて乗組員が諦め、その乗組員に対して「お前、ロボット壊しただろう。ちゃんと謝れよ」と言う優しい感じが物凄く好きで、サスペンスにする為にむやみ殺し合ったりせず、問題が解決したら優しい言葉をかけるという優しさがあるのが好きだった。
それに映像的にも色々工夫があり、人物を極端に画面の横に置いて台詞を喋らせたり、長い船内の通路の奥に一人だけ人物を配置したり、カメラを動かしながら動く人物を追っていたりと、映像的に見せる仕掛けをしているので集中力が途切れずに見ていられる。
特に映画の始まりは映画の終盤のサスペンス部分を持って来て、人物が台詞を何言か喋るとそこからオープニング・クレジットとなり、画面の端に人物がおり、それ以外の空いた空間にクレジットを載せるという見せ方も凝っている。
多分これがカラーだったら変にサイケデリックな色合いで映画の方向性が変わる気がして、白黒だから良い感じになっていると思う。
宇宙船や船内の造形は如何にも1960年代のSF感が満載で、今見てしまうとレトロフューチャーでしかないんだけれど、そこは1960年代の東欧のSF感を楽しむに変換は出来た。
宇宙船が円盤だったり、映像通信やセンサー的なモノがあるのにデータの出力はパンチカードとかはなのは時代性で、今見るとそういう時代性を楽しむモンなんだろう。
ただ、宇宙船から小型シャトルを出して調査に行くとか、船外では磁気シューズを履いているとか、結構ちゃんとしたSFをしている。
おもしろかったのは小型シャトルで、シャトルとは言っているけれど円盤型で、その円盤の上部の人が乗っている部分だけが他の宇宙船にくっ付いて動力部は切り離された構造だった事。
どうやらこのシャトルは母船からの操作でシャトルに乗っている人は操縦していないみたいだし、上部だけを切り離すとか不思議なガジェット感が新感覚でおもしろかった。
昨今の宇宙モノのSFは何だか妙に科学批判だったり、人が沢山死んでしまうとか暗い話に成りがちな気がするのだけれど、この映画は新たな子供が生まれ、新たな知的生命体とのファースト・コンタクトに向けてで終わっていて、新たな出会いと未来を想像させて終わるのが中々心地良くて良い感じ。
ただ、場面が急に進んで前の場面と今の場面の時間経過がいまいち分からなかったり、乗組員の話している内容や関係性がその後に深く影響もしなかったり、この人は何の専門家とか何担当とかが分かり難く、各人物も最後まで見分けが付き難いという不親切さと言うか、詰めの足りなさと言うか、物足りなさはあった。
この映画、1963年の共産圏だったチェコスロバキアでそれ程多くなかったであろう製作費とかを考えると凄い映画を撮ったんだと思う。
少し批判も入れつつ、宇宙探査での問題と日常を乗組員の団らんと議論や喧嘩を交えて描くって良く出来ている。
映像的にもおもしろいし、様々なガジェットもレトロフューチャーだと思って見れば今でも十分楽しく見れると思うし、今まで全く知らなかった古いSF映画でこんなに楽しめるとは思わなかった。
☆☆☆☆★
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