今期見たドラマでは「ER」が遂に終わった。

2018年12月30日 日曜日

2018年10~12月期に見たドラマは、

CSI:科学捜査班 シーズン1113
CSI:ニューヨーク シーズン7
ER緊急救命室 シーズン1415

を見た。
「CSI」も「CSI:ニューヨーク」も「ER」もレギュラー陣が結構変わってしまったので見る気が削がれて、特にあのおもしろかった「ER」のつまんなさったらなかった。
「ER」はシーズン15の終盤が2019年になってからだったけれど、まとめてここで書く。
 
 
CSI:科学捜査班 13

ジュリー・フィンレイがシーズン12の途中から入って来て、シーズン13では完全にD・B・ラッセルとジュリー・フィンレイの主役級体制になってしまい、D・B・ラッセルとジュリー・フィンレイ班に今までの「CSI」の面々が参加している感じで最早「CSI:科学捜査班」内でスピンオフドラマを始めてしまった感じ。
なので、一話一話の二転三転する捜査話は今までと変わらずおもしろいのだけれど、これじゃない感が強くて段々と興味が薄れてしまった。

シーズン・プレミアはシーズン12の最終話からの続きで、コンラッド・エクリーが銃撃され、D・B・ラッセルの孫の誘拐。ジュリー・フィンレイも罠にかかりそうな所から始まる。
しかし、「CSI」で誰かが撃たれてどうなるのかのシーズンまたぎが大好きだな。これで何度目?いい加減飽きた展開。
レギュラーから誰も辞める人がいないのを知っていると本当に茶番。

D・B・ラッセルの奥さんって、これまで電話している場面は何度も出て来ていたけれど姿を現さないので、てっきり「刑事コロンボ」型の登場しないのかと思っていたら、普通に出て来て、その登場の仕方が自宅での孫の誘拐が展開するから。

7話「ウォリック・ブラウンの墓」は題名通りウォリック・ブラウンの墓前で死者が出る所から始まり、ウォリック・ブラウンが生きているんじゃないか?という展開になる。
ただ、この回ではあれだけウォリック・ブラウンの話が出たのにウォリック・ブラウンの姿は一切登場せず。過去映像さえ無し。
この扱いが分からない。
ウォリック・ブラウンの話題を出すなら姿を出せばいいのに、全く出なかったのは演じたゲイリー・ドゥーダンが麻薬所持、交通事故、暴行等々の問題があったから出し難かったのか?
だったらウォリック・ブラウンの話はしなくても良いのに。

10話「恐怖のフライト」は謎の飛行機墜落事故の捜査から始まり、モーガン・ブロディが父親に贈る為に依頼した家系図の調査でやって来ていたシーズン12に登場した家系図学の専門家ドナ・ホッピーが再び登場したと思ったら、機墜落事故は別人に成りすまして金を横領していた事が発覚しそうな為の殺人事件だったと家系図学から判明する凄い変わった展開。
このドナ・ホッピーが登場すると、家系を辿って新たな事実を見付けたり、以前の法律関係の複雑さを見せて非常におもしろい回になる。
 
 
CSI:ニューヨーク 7

Dlifeでは何故か「CSI:ニューヨーク」の扱いが良くない。
「CSI:マイアミ」は「CSI:科学捜査班」での顔見世後に直ぐに始まったのに、「CSI:ニューヨーク」は「CSI:マイアミ」での顔見世後暫くしてから始まったし、シーズン終了後そのまま続けて新シーズン開始しないし。

で、シーズン7もシーズン6終了後暫く経ってから始まったけれど、わたしはシーズン6で結構飽きてしまっていて、しかもシーズン6の最終話がダニー・メッサーを恨んでいる以前からの犯人との因縁の決着かと思いきや、犯人が死んだと思ったら生きていて、メッサー夫婦の家に現れる所で終わりのクリフハンガーで更に興味を失っていた。
その結末となるシーズン7の1話目だけれど、これが酷い。
あれだけ引っ張っていた犯人はリンジー・モンローが銃を一発撃ったら上手く当たって犯人死亡で終わり…というしょうもない結末。
引っ張りに対してのこのあっさりと終えたのって、引っ張ったはいいけれどシーズン変わって製作陣も入れ替わったので投げ捨てた感じに思えてしまう。
しかも、突然ジョー・ダンヴィルがやって来て、ステラ・ボナセーラがいない。
リンジーへの手紙でステラ・ボナセーラがニューオーリンズでチーフになっている事が出て来るだけで、誰もステラ・ボナセーラについて触れないし、ステラ・ボナセーラという名前さえ一切出て来ない。
CSIフランチャイズの中でも中々酷い降板。
「CSI:ニューヨーク」ではマック・テイラーとステラ・ボナセーラの2トップ体制だったのに、その片方のステラ・ボナセーラが突然いないままで御終いって、ステラ・ボナセーラ役のメリーナ・カナカレデスの降板が上手く行かなかったとしか思えない。
この手紙だけで突然いなくなるって、「CSI:マイアミ」でシーズン1が始まった時にはホレイショ・ケインと2トップ体制だったメーガン・ドナーが辞表だけでシーズン中盤で突然いなくなったのが、どうやらメーガン・ドナー役のキム・デラニーが他のスタッフと上手く行かず急な降板となったのを思い出し、メリーナ・カナカレデスどうしたの?と心配になってしまった。
普通ならシーズン終了後に降板決定でも新シーズンの1話目でそのまま登場して何かしらの退場を描くのに。
 
 
ER緊急救命室 14

シーズン13に続けてDlifeで始まったシーズン14。

わたしは以前にシーズン1から見続けており、何時の間にか見なくなってしまったけれど、それがシーズン13辺りで、シーズン14は初見だった。
見なくなった理由は徐々に感じていたつまらなさだったと、このシーズン14を見て思い出した位このシーズン14がクソつまらなかったから。
アメリカでの視聴者数がシーズン13の中盤からがた落ち、シーズン14は1000万人を超える回が一回しかないという状態だっただけれど、確かにこのシーズン14はつまらない。

レギュラー陣の人間関係は特に盛り上がる部分は無いわ、各回の患者の話も見て来た様な話ばかりでおもしろくないわ、登場人物達の魅力も無いわで大分お粗末。

ドラマとして微妙なのは、ベテランのスタッフ・ドクターがおらず、急に何でも出来て指導者の立場になったグレゴリー・プラットアーチー・モリス体制に物凄い違和感を感じるし、今までいたケリー・ウィーヴァーロバート・ロマノの様な憎まれ役がいなくて人間関係がおもしろくないという部分。

シーズン13の終盤で突然やって来たICU部長のケビン・モレッティがER部長になったけれど、本来ならこのケビン・モレッティがER改革の為の憎まれ役になるはずだったと思われるのに、ケビン・モレッティが言う事が結構真面で、それに反抗する今までのERの面々の態度がいまいち理解し辛く、ERの面々に部活やサークルで適当にやっている若者感を感じてしまって、視聴者が見るべき立場がケビン・モレッティ側になってしまっていて、このケビン・モレッティの導入が失敗だったように思えた。
しかも、このケビン・モレッティは育児ノイローゼから再び酒に溺れてしまったアビー・ロックハートと寝てしまい、この関係が一体どうなるのやら?という大きな問題を見せておきながら、この関係に何も次の展開を見せないままケビン・モレッティの息子が問題を起こしてケビン・モレッティが急にいなくなってしまうという酷過ぎる結末にしてしまう。
流石にこれは酷い。

それにそれまでドラマの「ER」としても、ERの中心人物だったジョン・カーターが去る時に、この三人に任せたぞという感じで出て行った、三人の内レイ・バーネットは演じたシェーン・ウェストの降板で、レイ・バーネットの最後はロバート・ロマノの最後的な急なぶった切りで「何じゃ、そりゃ?」でシーズン13でいなくなり、ニーラ・ラスゴートラの話はあちらこちらの男共が私を取り合うのは止めて!というしょうもない恋愛劇ばかりでつまらないし、アビー・ロックハートは中心人物になっていたけれど結局レイ・バーネットやニーラ・ラスゴートラとの絡みが少なく、ジョン・カーターの退場場面を思い返すと「ああ、この時はまだ良かったのになぁ…」となってしまった。

ERを仕切るとなると役的にもグレゴリー・プラットになり、中でもグレゴリー・プラットがER部長になるかならないのかの問題を出し来るけれど、やっぱりグレゴリー・プラットは役的に弱い。
「ER」初期の権力志向バリバリだったケリー・ウィーバーとか、ずっと成長を見せ続けたジョン・カーターがERを仕切るのは非常にすんなり行くのに、グレゴリー・プラットは登場した初期は強気で押せ押せの鼻持ちならない部分があったのが突如普通の後輩を教える先輩になった頃から特徴が薄れ、役柄的にも面白味が無い普通過ぎる人物になってしまって、グレゴリー・プラットを中心に添えてもドラマ的に非常に弱い。
だらかもあってアメリカでは視聴者が減ったのだろうけれど。

シーズン13からの引き継ぎでもっと描くべき話は全然描かず、まるでシーズン13が無かったかの様な脚本のぶった切り感も酷い。
シーズン13で物語の中心にもなっていたトニー・ゲイツのと一緒に暮らしていたサラは、トニー・ゲイツの娘かどうかで散々引っ張り、結局トニー・ゲイツの娘ではなかったものの一緒に暮らす事になったけれど祖父母に引き取られた状態のままと紆余曲折あったにも関わらず、シーズン14になるとサラはほとんど登場せず、サラがトニー・ゲイツの元に来てもその普段の様子を全く描かない。
サマンサ・タガートもシーズン13で息子のアレックスの問題行動に悩んで施設に入れる事にしたのに、シーズン14になるとアレックスとは何故か上手くいっている様な話になるけれどアレックスは全然登場せず、見ているとサマンサ・タガートは面倒な息子を投げ出したのであっちの男こっちの男と羽伸ばし放題のろくでなしにしか見えない。

本来ならこの登場人物の薄さを引っ張らないといけない、これまで中心人物であったルカ・コバッチュは父親の事でクロアチアに戻ってしまい全然登場しなくなる。
アメリカに戻って来てもERを辞めてしまい更に存在感が無くなり、ER外の話ばかりで何でいるの?状態。

11話「決意も新たに」にかつてのレギュラーだったジェニー・ブレが登場。
確かに7・8年ぶりにERにやって来たので顔見知りがヘレエチュニー位しかおらず、見ている方も時代の流れを感じてしまった。
しかも視聴者数が一番良かった2~6シーズンに登場していたジェニー・ブレが、この視聴者数1000万人を割ってしまった末期状態の「ER」に再登場となると、どうしても「あの頃はなぁ…」になってしまう。

14話「破れた心」でサイモン・ブレナーが登場。
シーズン15でレギュラーになるけれど、このサイモン・ブレナー、下が緩い。自分の腕に自信過剰で周囲の忠告を聞かない…って、「ER」でこれまでも何度も登場して来た人物像でしかなく、既視感しかない使い擦られた役を今更出して来るとか、もう末期。

19話「シカゴ流」では急にケビン・モレッティが出て来てアビー・ロックハートとルカ・コバッチュに謝って二人はやっぱ元通りとか、最後は爆発した救急車の脇を偶然にアビー・ロックハートが通ったとか、ご都合主義満載で白けまくり。

あのおもしろかった「ER」が、このシーズンは結構何か別の事しながらの片手間に見てしまう位のつまらなさだった。
 
 
ER緊急救命室 15

シーズン14に続けてDlifeで始まったシーズン15。
いよいよファイナル・シーズン。
…なんだけれど、シーズン14よりも落ちるつまらなさ。
これまでの「ER」のかつての登場人物達が登場しなければ普通に見るのを止めている位、まあつまらない。
何がつまらないって、最終シーズンなのにこれまで「ER」を引っ張って来た人々が次々と一気に退場し、新しいER部長の下で、新しいスタッフ・ドクターが、新しいインターン達を指導する。
何で最終シーズンでこんな事を見せられないといけないのか?
まだこの展開がこれからも続くドラマの途中なら分かるけれど、長年続いた「ER」の最後によく知らない人々の今後に繋がらない物語を見せられても興味は出て来ない。
15年も続いた伝説のドラマのまとめが見たいのであって、最終シーズンで新規ドラマをやられても…。

それに、レギュラー陣の話もつまらない。
トニー・ゲイツとマンサ・タガートの恋愛もレギュラー陣が次々と退場してしまった残り者の寄せ集め感が凄いし、そもそもこの二人の恋愛劇って興味あるのか?だし。
ニーラ・ラスゴートラは変わらず尻軽感一杯で、結局原因は自分なのに何時も何でも被害者面の可哀そうな人物になってしまっていて全然共感性の無い人物になってしまって、最後までニーラを嫌いになるだけ。
アーチー・モリスは結構真面になってしまって、かつての適当男のコメディ・リリーフ役が弱くなって、グレゴリー・プラットが陥った「真面になると存在感が薄くなる」の再来。
新たにER部長となったキャサリン・バンフィールドも、初めは今までの面々との対立から徐々に弱い部分を見せて理解し合って行くという至って普通な展開でつまらない。
ケリー・ウィーバーみたいに良い人の面を見せると急に出世欲を出して冷徹になったり、ロバート・ロマノみたいに時々良い人の面を見せても常に憎まれ口しか叩かない強烈なER部長を見て来ただけに、最終シーズンでこの普通さは弱過ぎる。
サイモン・ブレナーもシーズン14ではやたらと下が緩いとか、ドナルド・アンスポーの甥とかの特徴を出しておきながら、シーズン15でレギュラーになると結構普通な医者になって、こちらも急激に役が弱くなった。

一方で序盤は新人達を中心に置き、この新人達を通しての話が多かったのに、何時の間にか新人達が登場しなくなり、まるで忘れられたかの様。
終盤になると、「そう言えば、新人達がいたはずだったけど…」と思う位そもそも登場もせずの中途半端に投げ出した感じが物凄かった。

話自体も既視感ばかりで、新しい人で今まで「ER」でやって来た事の様な事をやられてもなぁ…。

一話目から白けまくり。
前シーズンの最終話からの続きで、救急車の爆発した時に本当にただ偶然に横を通ったアビー・ロックハートは少しの怪我。
まあ、これはシーズンまたぎの役者が降板するかも?の生死の引っ張りで、降板しないと意味も無いはったりでしょうもない。
逆に、救急車に乗っていたグレゴリー・プラットは一旦大丈夫かと思いきや、そのまま死亡。
シーズン中盤での死なら突如で意外性があるけれど、シーズン・プレミアで死亡って、完全にグレゴリー・プラット役のメキ・ファイファーが降板したという事以外意味は無い。
これが最終シーズンだと分かっていてのここでの降板なので、グレゴリー・プラットが死んでも白けまくり。
元々グレゴリー・プラットが持っていた勝気とか、結構勝手に突っ走り気味といった個性があったのに、他との兼ね合いで指導者的立場になるとその個性が弱まって特徴の無い薄い人物になってしまって興味が減ったけれど、この一話目の死亡で更にどうでもいい人物に成り下がってしまった。
後からグレゴリー・プラットがER部長に決まっていたという話が出て来たけれど、最終シーズンなのだから古株がまとめて終わればいいのに、最終シーズンでもまた新しい部長と今までのレギュラーがぶつかるという、これまで何度やってきた?という見慣れた、飽き飽きする展開を見ないといけないのかと思うと本当にうんざりした。

続いて3話「思い出多く…」ではアビー・ロックハートが退場。
確かに前シーズンでほぼ辞めるのは決定はしていたけれど、話の中心でもあり、「ER」を支えて来た中心人物が最終シーズンで辞めてしまうのは…。
この回でルカ・コバッチュも退場だったけれど、ルカ・コバッチュは登場したのは最後の一場面だけで台詞も無し。
ルカ・コバッチュは前シーズンでERを辞めてしまい、しかも登場自体が少ない半降板的な扱い方ではあったけれど、この何も無い終わり方はしょうもない。
しかもこれ以降ルカ・コバッチュは一切登場せずで、忘れられた存在的な位置になってしまったのが残念。
これだけ話的にもドラマ的にも中心だったレギュラー陣が最終シーズンでバタバタ辞めて行くのを見てしまうと、沈んで浮かび上がる事は無い船から逃げ出して行った感が半端ない。
確かに、ここ何シーズンの「ER」のつまらなさったらないし、それに合わせて視聴者数もガタ落ち、サッサと抜け出た方が良いと考えるのは当たり前か…。
製作側も視聴者数が落ちて製作費も減って高給取りのベテラン陣を首切ると言うか、役者の要求に沿えないので仕方なく辞めるしかないと事もあったのかな?

7話「医者よ 自らを癒やせ」ではキャサリン・バンフィールドの過去を描く中で、実はERで子供を亡くしており、その担当だったのがマーク・グリーンだったという事で、久々にマーク・グリーンが登場し、更にはケリー・ウィーバーとロバート・ロマノも少しだけ登場。
確かにマーク・グリーンもロバート・ロマノも死んでしまったので再登場となると過去の回想でないと無理なのは分かるけれど、その過去の時期がマーク・グリーンが脳腫瘍で治療をしていた時期という、これからあの哀しい終わりを迎える前という時期で、「うわ!マーク・グリーンだ!」の喜びにならなかったのが残念。
それに話はキャサリン・バンフィールドの方が軸なのでマーク・グリーンは完全に脇役で、あのマーク・グリーンの再登場としては微妙だった。
あと、マーク・グリーンとロバート・ロマノはその当時の回想場面なのに退場してから五年以上経っているので二人とも微妙に老けているのが変な感じだった。

10「話幸せを求めて」でジェリー・マーコヴィックが突如戻って来て、そのまま受付に復帰。
確かに受付は以前は何人かの体制だったのに、最近はフランシス・マーティンばかりで慣れもあっていまいち盛り上がりに欠けた中でのジェリーの復帰は楽しかった。
しかし、次の回にはジェリーは全く登場せず。

12話「夢追い人」はこれまでの「ER」の中でもヘンテコな回。
ニーラ・ラスゴートラが朝目覚める所から始まり、色んな事が全て上手く行かなかったと思ったら、再びニーラが朝目覚め、同じ出来事を繰り返しながらも違う方法を取るが結局は上手く行かず。
と思ったら、三度ニーラが朝目覚め、今度は全てが上手く行くという繰り返しの展開。
この同じ出来事が繰り返される事については何の説明も無いので結局は「何のこっちゃ?」なんだけれど、見ているとニーラは前の出来事を覚えていて、それを回避する為に行動しているという訳ではなく、SFのループモノではない様。
話の中で、寝ていても見ている夢の通りに体が動いてしまう患者が登場したり、ニーラが階段ですれ違う人が繰り返す中で仏僧。兵士。バレリーナと変わり、特にバレリーナなんてどう見てもERにいなさそうな人がいたり、最後はニーラが朝目覚めて終わりなので、三度ともニーラが見ていた夢の話だと思う。
最後の全てが上手く行くのなんて、ニーラの都合の良過ぎる昇進や、ニーラが患者を他人に任せて自分はサイモン・ブレナーと楽しんでいるビッチ感一杯なのに患者も上手く助かってしまうという都合の良さで、正に夢。
結局はニーラは外科医として難しい決断とその責任を受け入れて生きて行く事が嫌で、仕事は人任せで、自分の昇進とセックスこそが至上という本当にどうしようもないクソに落ちてしまった事を宣言している様な回で、何でわざわざ最終シーズンでニーラ・ラスゴートラを更に嫌いにさせる様な話を見せなくてはならんのだ?
この回にはエリザベス・コーデイがゲスト出演していて、ニーラの面接者で行き成り登場。
エリザベス・コーデイはイギリスからアメリカに戻って来ていたと事が分かるけれど、その事についてERの誰も触れないという不自然さはあるし、エリザベス・コーデイの再登場で見たいのは亡きマーク・グリーンとの思い出なのに、それがほとんど無いままで終わりって、この登場のさせ方は何なんだ?

14話「長く不思議な旅」では元ER部長だったデビッド・モーゲンスタンが10年以上ぶりに登場。
それも、身元も名前も分からない老人がER前で倒れたので運ばれたら、実はその老人は1960年代にカウンティ総合のERを改革し今の形を作り、様々な新たなやり方を導入した緊急医療の父とも言えるオリバー医師で、そのオリバー医師の下で働いていたデビッド・モーゲンスタンが彼の代理人となっていたのでERまでやって来たと言う登場の仕方。
この話が非常に良く、認知症のオリバー医師が過去のERの事を思い出しながら他の患者の病気を見抜いて死んで行くというバリバリに立った人物で、このつまらなくなってしまっている「ER」よりもオリバー医師の過去の話を描くスピンオフドラマの方が見たくなってしまった。
新たにインターンとしてやって来たデビッド・モーゲンスタンが見るオリバーが次々と改革して行くERって熱いし、歴史医療ドラマとしてもちょっと目新しいし、そのドラマで描いた数十年後が「ER緊急救命室」で、何とか仕切っているマーク・グリーンの下で学ぶ新人のジョン・カーターへとダブって見えるし…と勝手に色々想像してしまえる回だった。

16話「懐かしき我が街」でジョン・カーターがERに復帰。
亡くなった我が子の名前を付けた施設の開設でシカゴに戻って来ていて暫くシカゴにいると言う理由でERで働きたいと言って復帰。
まあ、ドラマ的な都合の良い復帰ではあるけれど、やっぱり「ER」にジョン・カーターが戻って来るのは嬉しい。
特に最終シーズンなのにこのつまらなさで集中力も持たない中でのジョン・カーターは見る気力が湧いて来る。
しかし、ジョン・カーターを復帰させないといけない、この「ER」最終シーズン…という反面もある。
当然登場人物としての厚みはこれまで多くを描いて来た事があるからこそだし、長年ERにいたけれども出て行って戻って来てみるとスタッフはほとんど入れ替わって馴染みが少ない新環境になっていて、そこに馴染もうとするとか、医療も進んでその穴を埋めようとしつつもベテランの経験が生きて来るとか、「ER」の旧来を引き継ぎつつも新展開の話が楽しい。
ただ、ジョン・カーターの移植の話もそうだけれど、残り話数が少ないので結構駆け足になってしまっていて、ジョン・カーターはこのシーズンの序盤から出ておけば良かったのに…とつくづく思った。

19話「あの時再び」ではダグラス・ロスキャロル・ハサウェイピーター・ベントンが登場。
その登場の仕方も、これまで続いていた心臓移植を待つ娘を持つ母親とジョン・カーターの肝移植の臓器提供者がシアトルの人で、その移植をダグラス・ロスとキャロル・ハサウェイが仕切っているという繋がりのある登場の仕方。
この話が上手かったのは、ダグラス・ロスとキャロル・ハサウェイは移植の相手がジョン・カーターとは知らずに仕事をしている所。
ジョン・カーターもダグラス・ロスもキャロル・ハサウェイもピーター・ベントンもかつては同じERで働いていたけれど、皆色々あってERを去ってバラバラになったけれど知らない所で繋がっていて、皆、やっぱり人を救っているという描き方に感動した。
こういうサラッとした感じが「ER」で好き。
それに、心臓移植の方はニーラ・ラスゴートラとサマンサ・タガートがシアトルに来ていてダグラス・ロスと会話するけれど、「ケリー・ウィーバーは?」「辞めた。」「アビー・ロックハートは知っている?グレゴリー・プラットは知っている?」「いや、知らない。」「ドナルド・アンスポーは?」「います。」と言う会話になってもそれ以上続かずに最早ダグラス・ロスのいた頃のERとは違ってしまっている哀しさがある一方、ピーター・ベントンがジョン・カーターと久々に再開してもかつての師弟であり友人でもある雰囲気は最高に良く、ピーター・ベントンはジョン・カーターの事が心配で心配で、可愛くて可愛くて仕方がない感じもあったりと、この回はシーズンの中でも最高に良い回。

20話「2499」でニーラ・ラスゴートラがERを去ってしまう。
それはニーラ・ラスゴートラがレイ・バーネットの元に行く為だったと良い話風で終わったけれど、結局レイ・バーネットには思わせ振りな態度を続けながらサイモン・ブレナーとやってしまったけれど駄目だったのでレイ・バーネットに行ったとしか見えない、ニーラ・ラスゴートラの最低振りが極まっただけ。
更に続く21話「気分は最高」では、ニーラはサイモン・ブレナーがいるのを分かっていて、わざわざレイ・バーネットと一緒にいる時にERにテレビ電話をかけて来る始末。
サイモン・ブレナーは自分では吹っ切ったとは言っていたけれど、自分と上手く行かなくて出て行ったと思ったら過去の男と一緒だったとか、そりゃ気分は良くないだろ。
ニーラ・ラスゴートラのマイケル・ガラントを亡くしてからのクソっぷりったら無かったよなぁ。ドンドンと興味が失せて行った人物だった。

で、遂に最終話「そして最後に」。
ERに復帰したはずなのに移植で暫く登場もしなかったジョン・カーターが復帰したり、ジョン・カーターが開いた施設の式典にケリー・ウィーヴァーとスーザン・ルイスとピーター・ベントンと息子のリースとエリザベス・コーデイが出席し、その後昔を懐かしみながら飲んでいたり、何時の間にかいなくなったと思ったら、かつての恋人ピーター・ベントンとエリザベス・コーデイの微妙な感じが見れたり、この最終話だけ突然現れた看護師のリディア・ライトとか、ERでは子供が育つと役者が交代する事がほとんどの中でピーター・ベントンの息子のリースは同じ役だったりと「おお!!」と思う見所は沢山あったけれど、やっぱり一番の見所はレイチェル・グリーンの登場。
父親マーク・グリーンと同じカウンティのERで働きたいと面接にやって来るとか、物凄い熱い登場のさせ方。
既にERで働いているグレゴリー・プラットの弟チャズ・プラットと将来ERに来るであろうレイチェル・グリーンとか、時代が進んでいる感も良い感じ。
最後にレイチェル・グリーンに対し、ジョン・カーターがドクター・グリーン、来なさい。」と言うのも熱いし。
話もこれまでの「ER」で描いて来た生と死や死への想いを詰め込んでいるし、テキパキと動くベテラン組と葛藤する新人を描いて、最終話が非常に「ER」らしくて非常に良かった。
ただ、スーザン・ルイスはあれだけラブラブだったチャック・マーチンと別れたのかよ…とか、結局ジョン・カーターとケムは上手い事行かないままかぁ…とか、チャズ・プラットっていたんだっけ…?とか、ルシアン・ドゥベンコは出ないの?とか、最終話も「ER レトロスペクティブ」でも結局あれだけ中心人物だったデイブ・マルッチ、ジン・メイ・チェン、マイケル・ガラントの登場は無しか…とか残念な部分はあったけれど。

確かに最終話は非常に感動的で見所も一杯あったし、医療ドラマとしても非常に「ER」らしく、「ER」の最終話としては非常に良かった。
ただ、シリーズとしてはもっと早く終わっておくべきだったと強く思ってしまった。
最後の2・3シーズンは見ていてもつまらなかったし、特にこの最終シーズンの登場人物達の一斉離脱はきつかったし。
しかし、わたしにとっては今でも「ER」は好きな三大ドラマの内の一つだし(他は「スタートレック:ディープ・スペース・ナイン」「24 -TWENTY FOUR-」)、わたしの乾いた生死観や家族観を形成し、人生観に大きく影響を与えたドラマで、やっぱり「ER」はおもしろいし、素晴らしいドラマだった。

ギャラクシー・クエスト

2018年12月27日 木曜日

ディーン・パリソット監督、ティム・アレン主演の1999年のアメリカ映画「ギャラクシー・クエスト(Galaxy Quest)」。

1979年から4年間放送されたテレビドラマ「ギャラクシー・クエスト」は宇宙を探検するSFでカルト的な人気を誇り、十数年経ってもコンベンションでの出演者達のサイン会には大勢のファンが集まっていた。
しかし、「ギャラクシー・クエスト」のレギュラー達はその後は役者としてはパッとせず、彼らの仲も余り良くなかった。
あるコンベンションでタガート艦長役だったジェイソン・ネズミスの前にサーミアン人と名乗る人々が現れ彼に助けを求めるが、ジェイソン・ネズミスは番組のファンで仕事の話をしていると思っていた。
明くる朝ジェイソン・ネズミスの自宅にそのサーミアン人達が現れ、仕事の送迎だと思ったジェイソン・ネズミスは彼らに付いて行った。
しかし、ジェイソン・ネズミスが着いたのは本物の宇宙船であり、彼らが本当にサーミアン人で、「ギャラクシー・クエスト」を記録映像だと思った彼らはタガート艦長に敵対する種族との交渉をして欲しいと助けを求めに来ていたのだった。

この映画は実に素晴らしい。
この映画はテレビドラマ「スタートレック」のパロディ的オマージュ的映画だけれど、わたしは「スタートレック」が好き。
見ていたのは「新スタートレック」以降の「スタートレック:ディープ・スペース・ナイン」「スタートレック:ヴォイジャー」で、特に「スタートレック:ディープ・スペース・ナイン」がわたしの三大海外ドラマの一つになっている(あと二つは「ER緊急救命室」と「24 -TWENTY FOUR -」)
しかし、この映画のオマージュ部分は見ていると一番初めの「宇宙大作戦」を基にしている。
タガート艦長役のジェイソン・ネズミスが陽気で乗りが良いのに対し、ドクター・ラザラス役のアレクサンダー・デーンは気難しい顔をしていて、ドクター・ラザラスは乗組員では唯一宇宙人とかはジェームズ・T・カークとスポックだし、宇宙船の内部とか小道具は完全に「宇宙大作戦」。
わたしは「宇宙大作戦」を余り見ていないけれど、それでも相当楽しめた。
導入の皆が俳優としてはパッとしておらず、営業周りの日々で、各人物間の微妙な人間関係とか、ファンから持てはやされる一方で小馬鹿にもされる哀しさを持っている所から、ドラマの虚構の世界が実世界で実現してしまい、虚構が現実となった戸惑いと興奮から、自分達の事を心から信頼して信奉してくれる宇宙人を救いたいという熱い王道のSFアクション映画になる展開は抜群に上手い。
弱きを助けて悪者を倒すなんて真面にしてしまったら在り来たりなSFにしかならない所を、かつてのSFテレビドラマのかつての人気者達が主人公と一捻りしている所に、各登場人物達がドラマの役に乗っかりながら自分自身も本当に英雄化して行くという人間ドラマまで描いている。

また、上手いのが配役も。
ジェイソン・ネズミス役のティム・アレンと言えば、「トイ・ストーリー」のバズ・ライトイヤーの声でお馴染みだった人がこの映画で「あのタガート艦長」を演じていたり、ドクター・ラザラス役のアレクサンダー・デーン役のアラン・リックマンと言えば「ダイ・ハード」の犯人のハンス・グルーバーでお馴染みだったり、アラン・リックマンも役と同じくイギリス人俳優でシェイクスピア俳優だったり、タウニー・マディソン少佐役のグエン・デマルコ役のシガニー・ウィーバーと言えば「エイリアン」のエレン・リプリーだしと、微妙に映画内の役柄と被って見えてしまう様な俳優を使っているので、そこでも楽しめてしまう。
ただ、映画内の役者達と実際の俳優がちょっと違うのは、ティム・アレンはその後もずっとバズ・ライトイヤーを演じ続けているし、日本では放送が無かったようだけれど、七年も続いたシット・コム「Last Man Standing」で主演を務めていたし、アラン・リックマンはハリー・ポッターシリーズでセブルス・スネイプを演じていたし、シガニー・ウィーバーも数多く映画に出演したりと活躍。
技術主任チェン役のフレッド・クワン役のトニー・シャルーブはテレビドラマ「名探偵モンク」で有名だし、名前無しだった乗組員役のサム・ロックウェルはその後有名になってアカデミー賞とかも取っているし。
この映画のその後を知っていると、また違うおもしろさも出て来るという、この映画の設定が更に活きて来る。

この映画、わたしが「スタートレック」が好きだからか初めから最後までずっと楽しかった。
「スタートレック」好きでなくとも、現実の虚構と虚構の様な現実が入り混じるコメディとしても、熱い展開を見せるSFとしても抜群におもしろいはず。
はっきり言って、2009年から始まった新しい映画「スター・トレック」のシリーズよりもこの映画の方が全然おもしろい。
映画「スター・トレック」での「スタートレック無い無い感」の物凄さに比べると、この映画の「スタートレックあるある感」の楽しさったらない。
役名無しの乗務員の扱いあるあるは爆笑したしなぁ。

☆☆☆☆☆

フェリスはある朝突然に

2018年12月26日 水曜日

ジョン・ヒューズ製作・監督・脚本、マシュー・ブロデリック主演の1986年のアメリカ映画「フェリスはある朝突然に(Ferris Bueller’s Day Off)」。

高校生のフェリス・ビューラーは同じ学期で九度目の仮病を使って学校をズル休みした。
フェリスは親友のキャメロン・フライと恋人のスローン・ピターソンも誘い出して街で遊び出した。
以前からフェリスの事が気に食わなかった校長のエドワード・ルーニーはフェリスのズル休みを暴き出すためにマシューの家へと向かった。

粗筋を読んだだけでは全く興味が無かった映画だけれど、確かこの映画は映画「デッドプール」は見ていないけれど映画内でパロディにされてたという話は知っていたので見る事にしてみた。
しかし、この映画は全くおもしろくもなかった。
金持ちのボンボンで、やたらと両親から溺愛されていて、学校中の人気者のフェリスがズル休みして好き放題する事が次々と上手く行くだけの話で、これの何処を楽しむのか、さっぱり分からなかった。
わたしも学校を休みたいと思った事はあるし、実際休んだ事もあるけれど、このフェリスが何故これだけ何度もズル休みするのはさっぱり分からず、悩みも大した事なく、おっさんのわたしが見ても何も共感性は無し。
しかも、フェリスが好き放題して常に上手く行くというおもしろくもない展開に早い段階で飽き飽き。
これが徐々に物事が大きくなって行くとか、常にハチャメチャなら展開として分かるけれど、小さい出来事の連続から急に町の人々を巻き込んでの大きな出来事になったかと思ったら、友達の嘘自殺という非常にこじんまりした出来事になったりと、展開の波の大小が考えられておらず散漫。
多分、この映画の一番の盛り上がり所のフェリスがカーニバルに参加してミュージカルになる場面が結構中盤なので後は盛り下がるだけなのに、何でここに盛り上がりの頂点を持ってきたのだろう?と思ってしまった。
ここのミュージカル場面は吐き気を催す位のクソ感だったので一気に早送り。
そもそもフェリスが見ている側に語り始めた早い段階で結構早送りを繰り返してはいたけれど。
この登場人物が見ている側に語り掛けて来るという演出が嫌い。
元々ナレーションで状況説明や人物の感情を説明してしまう映画が好きではないし、そのナレーションの替わりに登場人物に喋らしたり、それをメタ・フィクション的に見ている方に語り掛けるのは更に嫌い。
同じ様に見ている方に語り掛けて全部説明してしまうというと、ドラマ「ハウス・オブ・カード 野望の階段」も主人公のケヴィン・スペイシーが同じ事をしていたけれど、それが鼻について鬱陶し過ぎて見るの止めたし。
この映画でも同じ鬱陶しさ感があったけれど、初めの状況説明で多用していたのに暫く経つとさっぱりやらなくなり、演出の中途半端さったらない。

この映画が終わるまでずっと思っていたのは、これって落ちはフェリスの夢落ちなんじゃないの?という事。
フェリスは金持ちの息子で、親からの変な程の愛を受けていて、学校中の人気者で誰からも好かれていて、無茶をしても何故か上手く行くなんて、全てが出来過ぎなあり得ない話で、仮病を使って休んでいるという事になれば、実はフェリスは貧乏な家の子で、親からの愛も無く、学校ではいじめられているので学校に行きたくないので仮病を使って家で寝ていて、見ている夢では理想の自分を見ているんだと思っていた。
そうならこの話もすんなりと分かるけれど、この有り得ない話を納得させるのが単にこれがコメディだからという理由なら、この映画はつまらないコメディとしか思わなかった。

この映画でフェリスの家に校長がやって来る所が物凄い映画「ホーム・アローン」っぽいなぁと思っていたら、この映画の製作・監督・脚本のジョン・ヒューズって、映画「ホーム・アローン」で製作・脚本をしていたのか。
この映画の校長部分は映画「ホーム・アローン」の試作版だな。

途中の警察署の場面でチャーリー・シーンが登場した時、「あ、チャーリー・シーンだ!」と思ったのだけれど、このチャーリー・シーンの使い方がいまいち分からない。
てっきりチャーリー・シーンが有名になった後での一場面登場で「あっ!」と思わせる為だと思っていたら、チャーリー・シーンが有名になったのって、この映画の公開後半年後位に公開された映画「プラトーン」だから、この映画の当時ってそうでもなかったんじゃないの?
だとすると、この思わせ振りな人物だけれど特に何も無い役って何だったのだろう?
妹と何かこの後ありそうで、何かの振りかと思ったのに。

この映画、主人公が見ている方に語り掛けるメタ・フィクションをやってはいるけれど、それが効果的かと言えばそうでもないし、それが無いと特徴も無いつまらないコメディ映画で、わたしは見ている方に語り掛ける演出が嫌いで、更にコメディ映画としてもおもしろいと思えなかったので非常につまらない映画だった。

☆★★★★

天国と地獄

2018年12月25日 火曜日

黒澤明監督・脚本、三船敏郎、仲代達矢、山崎努出演の1963年の映画「天国と地獄」。
エド・マクベインの小説「キングの身代金」が原作。

ナショナル・シューズ社の常務権藤金吾は売り上げが伸びない自社を変える為に社長を降ろそうとする計画を重役達と話し合っていたが、権藤は独自に株の買い占めを行って自分が会社の実権を握る為に財産をかき集めて5000万円を用意していた。
そこに突然「息子を誘拐した」と言う電話が入るが、権藤の息子はおり、権藤の運転手の青木の息子がいなくなっていた。
電話をかけて来た男は間違えて誘拐した事を認めたが、それでも権藤に3000万円の身代金を要求した。
権藤は自分の人生をかけた取引の為に用意した金を自分の息子ではない子供の為に差し出すべきなのかを悩み始めた。
連絡を受けた警察が権藤家にかかって来る電話を聞きながら犯人を捕まえようとするが何も手立てが無かった。

流石に黒澤明映画だけあって、今見ても展開や扱っている題材は古ぼけずに非常におもしろかった。
会社を変える為の謀略から始まり、それが権藤が自分で何とかしようとする企業話かと思いきや、突然の誘拐事件になったと思ったら別人を誘拐し、それでも身代金を払うか否かの葛藤となり、電車を使っての犯人に手出しを出来ない巧妙な身代金受け渡しが終わってからも警察の地道な捜査を延々と描いて徐々に犯人を追い詰めて行く緊迫する第二部となり、そこから最後の犯人の一人芝居と、捻って意外性を見せた展開は抜群。

それに、金持ちを羨むというだけの動機で駆り立てられた犯人の狂気は今でもある話しで、50年以上経った今でも見ていて寒気と吐き気を感じてしまった。

ただ、流石に50年以上も前の映画だけに、結構もっちゃりしている部分は多かった。
初めの誘拐事件が発生してから電車までの一時間位はほぼ一室だけで話が進み舞台っぽくておもしろい設定ではあるけれど、結構ダラダラと続いて見た目的にそれ程代わり映えしないので徐々に気持ちが落ち着いてしまった。
しかも登場人物の状況説明や感情を全て台詞で話してしまうのでいまいち乗って行けず、ここは葛藤を描いてはいるけれど展開が遅くてちょっと飽きてしまってはいた。
電車での身代金受け渡しは緊迫感があって良かったけれど、その後の警察の捜査もたるさがあり、特にこの映画の象徴的な場面となっている煙突からの色の付いた煙を見せた後もダラダラと捜査を続けるのも締りが無くて退屈だった。
煙の場面で見ている方にも「あっ!」と思わせて一気に話が終息まで展開すると思うじゃない。
でも、その後もダラダラと犯人を泳がせる場面は長いし、これだけ引っ張ったのだから一番の見せ場として犯人逮捕があるのかと思いきやそうでもなく、ヌルっと犯人逮捕で盛り上がらなかったし。

あと、最後のあの如何にも役者の演技の見せ場はどうにも嫌い。
他の映画でもドラマでも、「役者が演技を見せてます!」なのが、どうにも白けてしまい、なのでそれで終わるので印象として「何だかなぁ…」になってしまった。

それと仲代達矢演じる戸倉警部も凄い様で凄くないのもいまいちだった部分。
通報を受けてすぐさまやって来たけれど、誘拐犯を探る為に細かい情報を聞き出す訳でもなく、権藤が5000万円を用意しているのを知ったのに、その時に偶然にも誘拐事件が起こって3000万円を要求して来る誘拐犯は関係者じゃないのか?とか一切疑わないし、序盤で「こいつで大丈夫か?」と思ってしまった。
後半の犯人が分かった後に、このままでは刑が軽過ぎるので罠にはめて罪を重くしてやろう!と言い出した時には「こいつはヤバい…」と引いてしまったし。
この戸倉警部がどうにも腑に落ちなくて、5000万円を用意したと発表した直ぐ後に誘拐が起こっているのだから5000万円を用意したと知っている人物を怪しむのが普通だし、こんな偶然なんだから5000万円の用意や反旗を翻した重役達との関係が誘拐事件に関わっているのかと思いきや、本当にただ会社の行く末の5000万円の用意と誘拐が偶然だったと言うだけの脚本は間抜けな感じだし、犯人の鬱積した妬みや嫉みの暗い感情を爆発させてしまった対比として、正義だと思われるモノが成されるなら悪人に更に罪を重ねさせてより刑を重くさせようとする暴走した正義の戸倉警部をそうとは描かずに普通に正義の人として見せているのが全くしっくり来なかった。

この映画は現代劇ではあるけれど、半世紀以上前となると最早時代劇に近い感覚の分からなさが出てしまう。
身代金の3000万円は大金だとは分かるけれど、それが今のどれ位の感覚なのかさっぱり分からず、しかも後からカレーが100円とか、ソーダが40円とか出て来るので更に金銭感覚がピンと来ないまま。
三船敏郎が自宅の窓を開けて外を見ると、排気なのか、スモッグなのか、物凄く街の景色が曇っていて、しかも街並みが小汚くて、それでもあの高台に家を建てている感覚がいまいち分からないし、あんなに目立つ丘の上の一軒家で外から丸見えなのに気にしていないとか、この時の家の感覚がさっぱり分からなかった。

この映画、誘拐モノとしては二部構成的な展開でおもしろいのだけれど全体的に間延びする部分が多く、どうしても古いサスペンス映画になってしまっている。
かと言って、これを現代に置き換えたらミスリードを多用してしょうもなくなってしまうだろうし、色々と成り立たない部分も出て来るだろうで良くある凡作サスペンスになってしまうのだろうし、やっぱり現代劇のサスペンスって公開された数年後位までに見ないとちゃんと楽しめないのだろうなぁと思ってしまった。

☆☆☆★★

トゥモローランド

2018年12月24日 月曜日

ブラッド・バード製作・監督・原案・脚本、ジョージ・クルーニー主演の2015年のアメリカ映画「トゥモローランド(Tomorrowland)」。

1964年。少年のフランク・ウォーカーは万博の発明コンテストに出品しようとしたが相手にされなかった。
しかし、審査官と共にいた少女アテナに気に入れられてピンバッジをもらう。
そのピンバッジで科学技術が非常に発展したトゥモローランドへと行き着く。
現代。ケイシー・ニュートンは父親の仕事が無くなる事を思い、ケネディ宇宙センターの解体工事の妨害を行っていた事が見つかり逮捕。
直ぐに釈放され所持品を返却されたが、その中に見慣れないピンバッジがあった。
そのピンバッジを触ると、目の前に見た事も無い科学技術が非常に発展した都市が現れる。
ケイシー・ニュートンがそのピンバッジの正体を探り始めると、彼女の前にアテナが現れた。

この映画がずっとつまらないのは構成や展開の不味さと分かり難さだと思った。

始まりで少年の冒険モノで掴みにかかろうとするけれど、わたしは昔から、子供の時から「子供の冒険モノ」が嫌いなので掴まれないまま始まり、その後は急に主人公が変わってケイシー・ニュートンの話になるけれど、話の中心になって、ずっとその話をしているトゥモローランドに関しては何時になってもトゥモローランドとは一体何で、今はそのトゥモローランドをどうしようと何をしているのかの説明が無いまま進んで行くので、ずっと置いてけ堀。
知りたいトゥモローランドの事はアテナが「質問するな」「それ以上質問するとシャットダウンする」と言って、映画側が「説明なんてしないから黙って見てろ」と宣言するんだから、見ていてもドンドンと興味を無くしてしまい、どうでもいいや…になってしまった。
結局最後までトゥモローランドは何処にあり、何であんな驚異の科学技術があり、50年以上経っているのにトゥモローランドの科学技術が更に発展した様子が無いまま荒廃しているのかとかの説明は無いままで、トゥモローランドの説明に関してはほぼ無しで知りたい部分はずっとモヤモヤしたままで終わってしまう。

始まって一時間位経ってからジョージ・クルーニーが登場して、どうやらトゥモローランドはピンバッジが見せている科学技術の進んだ未来世界とは違うらしいという話になってようやく少し興味が出て来るのに、やっぱり詳しい説明が無く、ジョージ・クルーニーとアテネだけが分かって話をしているので、ケイシー・ニュートンと見ている方は置いてけ堀。
こんなに見ている方の疑問をほったらかしで、話を引っ張れると思ったのだろうか?

しかもケイシー・ニュートンは常にギャーギャー騒ぐうるさいガキで、見ててもうっとおしく、登場人物としても、狂言回しとしても、主人公としても引きが無い事。
この構成じゃあなくて、ケイシー・ニュートン部分も削って、もっと早くジョージ・クルーニーを出してジョージ・クルーニーで話を展開させた方がよかったんじゃないの?

分かり難さは現実との繋がりや比喩の部分が分かり難く、結局何を描いているのかが分かり難いという所からかも来ていると思う。
トゥモローランドと言えばディズニーランドや世界各地のディズニーのテーマパークにあるし、この映画がディズニー製作・配給なので現実のディズニーと比べて見てしまうけれど、それが分かり難い。
映画のトゥモローランドは正にウォルト・ディズニーが描いた未来世界であり、トゥモローランドはディズニーの比喩なんだろうけれど、そのトゥモローランドは選ばれた一部の人による排他的世界で、時代が経つと何故か荒廃しており、独裁的指導者が頭がおかしいヤバい奴として描かれていて、そんなディズニーに否定的な映画をディズニーが作っている意味がよく分からない。
ヒュー・ローリーは地球のお偉いさん達は耳を貸さないと言っているけれど、ディズニーって政府と関係が深くて、昔から献金とかロビー活動を積極的にしていて、むしろディズニーって現実ではお偉いさん側だし、その地球のお偉いさん達は金儲けにしか目がないというのも、むしろ昔からディズニーに対する批判として出ているモノじゃん。
この映画見ていても、誰が何処を向いて何を主張しているのかがゴチャゴチャしていて分かり難く、これらはそんな比喩や暗喩は関係無く単にトゥモローランドのユートピア的ディストピアと分かりやすい一般的批判だけなんだろうか?
よく分からなかったので監督でもあり製作や脚本もしているブラッド・バードを調べてみたら、色々すんなりと納得。
ブラッド・バードは14歳の時にウォルト・ディズニー・スタジオでアニメーション制作を学び、大学卒業後にディズニーに就職したけれど数年後に退職。
その後は「ザ・シンプソンズ」の制作に関わったり、ワーナー・ブラザースやピクサーでアニメーションの監督。
2006年にピクサーがディズニーの子会社になり、2007年の「レミーのおいしいレストラン」を監督。
という経歴でこの映画の製作・監督・脚本をしているので、この映画をブラッド・バードの自伝映画として見たら分かりやすくなったというか、わたしは妙に納得してしまった。
ブラッド・バードは少年の頃からディズニーに憧れて、理想を見てディズニーに入ったけれど出て行く事になり、外から見ると今のディズニーはかつての面影は無く、理想や夢を追いかけず、特定の人物による独裁によってダメになり、その崩壊したディズニーと今の世界をフランク・ウォーカーことブラッド・バードの俺様が全て救う!と理解したけれど、それだとそれでブラッド・バードの自惚れっぷりとオナニー感が半端ない映画になり、酷い映画になるけれど、結局はブラッド・バードの愚痴と自惚れにまみれた映画だと思うと、誰が何処を向いて何を言いたかったのかが結構分かる内容だと勝手に解釈した。

でも、色々はまらないは多かった。
トゥモローランドは、確かに1960年代から見た未来世界の映像だとは思うけれど、2010年代から見ると空飛んでいる部分を除くと現実と大して変わらない部分が多く、憧れの未来世界観が結構薄い。
それにトゥモローランドでは何で個人間の争いや憎しみが無く社会が問題無く回っているのかの説明は無く、科学技術さえ発展すれば理想の世界って、やっぱり古いSF。
しかし、その理想の社会もどうやら失敗したらしけれど、それも何故なのかの説明も無く、トゥモローランドの薄っぺらさと言うか、お座なり感が半端ない。まさに張りぼてで作られたアトラクション用のセットでしかない感じで一杯。

派手な場面を見せて盛り上がりを作ろうとして突然パリのエッフェル塔に行くけれど、これが取って付けた場面転換だし、エッフェル塔が割れてロケット発射とか急に馬鹿映画になって、白けまくった。

最後のネタバラシも、結局悪いのはお前らだ!で、何十年前のSFなんだという既視感たっぷりの説教。
しかも洗脳装置を壊せば地球は救えるとか、非常にお手軽な世界救済。

最終的にトゥモローランドは再始動し、集めて来る人間は夢を信じている人になったけれど、これはこれで危ういし、気持ちの悪いユートピア。
常に現実主義で懐疑的な人よりもトゥモローランド的には洗脳しやすくトゥモローランドを回すには都合が良いのだろうけれど、この映画の様にトゥモローランドや世界に問題が起きた時に現実を見て妥協的でも問題を解決しようとしても、実現が無理そうでも「いや、夢を諦めるな!」で無理が通りそうな世界になりそうだし、現実と向き合って夢を諦めた人は排除され、「夢を諦めるな!」で押し通されて頑張り続けないといけない世界って怖いよなぁ。

そう言えば、よく考えたら、あのピンバッジって触った場所が何でわざわざトゥモローランドの町の郊外から始まるのだろう?
現実の世界とトゥモローランドの位置が連動していたけれど、皆トゥモローランドを目指すだろうに、そうなると現実世界が見えないからフラフラして現実の町の道路に飛び出して自動車にひかれたり、崖から落ちたりもするじゃん。
ケイシー・ニュートンも階段から落ちて平気ではあったけれど、当たり所が悪ければ死ぬ可能性もあるし、あのピンバッジを作った人間は相当頭が悪いな。
逆にトゥモローランドで階段を降りたり、乗り物に乗って移動したりしているけれど、現実世界ではどうなっているの?という疑問は一切無視で、そこは描かない。
トゥモローランドで乗り物に乗っていた時に、何で現実世界で木に一切ぶつかっていないの?

あと、ケイシー・ニュートンが被っていた帽子は失くしては探し出す大事な父親の帽子で何かの象徴的に扱っていたのに、最後は単に風に飛ばされて失くしてしまって、特に何かの変化や決心を象徴もせず終わってしまって、この適当さは何?

この映画、話の軸になっているトゥモローランドを全然説明しないまま進んで興味を引かせない構成が不味かったし、人間が悪いだの、夢を持つ事が一番だのと単純化された擦り倒された説教臭い結末とか、不味さばかりを感じてしまった。
ブラッド・バードが監督をした「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」も見たけれど、そもそもこのシリーズ自体が無茶で強引でご都合主義が散りばめられている上に、製作でJ・J・エイブラムスが入っているのでしょうもない映画になるしかないけれど、それでもブラッド・バードのアニメーション映画の評価を見てしまうと、ブラッド・バードって実写映画撮らない方がいいんじゃないの?と思ってしまう。

☆★★★★