自転車のライトを盗まれた

2017年10月25日 水曜日

自転車をとめて、古本チェーン店に入って10分も経っていなかったと思うけれど出て来て、何時も通りに自転車の鍵を外して、後方のライトを点灯させて、前方のライトをつけよう…と思ったら、ライトが無い!台座はそのままでライトだけが無い。
直ぐに盗まれたと気付き、やり場の無い怒りが湧いたけれど直ぐに引き、何とも思わなくなってしまった。
「大阪だもんなぁ…」と。
人口当たりの犯罪発生率が一位の犯罪都市大阪ではこんな事はよくある事なんだろう…。
ますます大阪が嫌いになった。

分からないのがライトを盗むクソ馬鹿。
自転車のライトって統一規格みたいのが無いはずで、ブラケットとライトを合体させる部分は会社やライトの形によってバラバラで、ブラケットが違うとはまらないだろ。
ライトだけ盗んでどうするつもりだったのだろう?

望むらくは、わたしの使っていたライトは元々構造上難ありで、電池を交換する時にはカバーを外してその中にLEDのライト部分と電池を入れる部分がくっ付いて入っており、それを取り出さなくてはいけないのだけれど、引っ張り出すにはLED部分を持つしかないのにLED部分を持って引っ張ると電池を入れる部分から取れそうになってしまうので何度かボンドで貼り付けていて、電池を入れる部分のすき間に細い物を差し込んで引っ張り出すという方法じゃないとLED部分が千切れてしまうので、それを知らない窃盗犯は電池交換する時にLED部分を無理矢理引っ張って見事に壊れてしまっていて欲しい。

ダイアリー・オブ・ザ・デッド

2017年10月14日 土曜日

ジョージ・A・ロメロ監督・脚本、ミシェル・モーガン主演の2008年のアメリカ映画「ダイアリー・オブ・ザ・デッド(Diary of the Dead)」。

ピッツバーグ大学映画学科の学生達が山奥で卒業制作のホラー映画を撮っていると、ラジオから死体が蘇り人々を襲い始めたというニュースを聞く。
学生達は撮影を止めて家へと帰ろうとするが、道中で死んでいるのに歩く人間を目撃する。
卒業映画の監督兼撮影のジェイソンはカメラを止めず、全てを記録しようとする。

わたしはジョージ・A・ロメロの映画は「ゾンビ」を見て、ホラーの中に終末・崩壊・生き残り・社会批判・人間性を練り込んで非常に感心したし、「ランド・オブ・ザ・デッド」も見て、確かおもしろかったと思ったはず。
現在では映画だけでなく、漫画やゲーム等で粗製濫造されまくっているホラーのアイコンであるゾンビを生み出したジョージ・A・ロメロの「~・オブ・ザ・デッド」なので当然期待はして見たけれど、この「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」は酷い出来。
学生がカメラを回し続けるモキュメンタリー風になっているけれど、まるでジョージ・A・ロメロのフォロワーがジョージ・A・ロメロの真似して作った安っぽいゾンビ映画の様。
安っぽく盛り上がらない展開。怖くもないゾンビ。説教臭過ぎる社会批判等々、これがあのジョージ・A・ロメロの映画?と思える位冴えないダラダラした映画。

この映画の一番の問題点は、ゾンビのホラー映画として全く怖く無いという事。
始めの事件現場の時点で、蘇った人間が人を襲っても緊迫感は無いし、ジリジリと寄って来ても恐怖感が全く無く、この始めで「あれ?つまんないんじゃないの?」と思ってしまう。
その後もゾンビはゆっくりと迫って来るのに生きている人間はゾンビの存在に全く気付かず、気付いた時には頸動脈を噛み千切られるという間抜けが何度も繰り返される。狭い場所に大量のゾンビが押し寄せるなら説得力もあるのに一体のゾンビに抵抗せずやられるって間抜けにしか見えない。
人気の無い山中の農家に何故かワラワラとゾンビが押し寄せる場面は、もうお笑いでしかないし。
まだ学生で、多分銃も撃った事無い様な人間があの小さな銃で動くゾンビの額の真ん中を打ち抜くという、皆が銃の名手という馬鹿げた超人設定も怖さを削ぐし、登場人物達は死んで行くものの、ゾンビを簡単に倒してしまうので今までにあった「ゾンビがワラワラ湧いて来て、対処しようにもどうにも出来ずにゾンビに襲われてしまう」という、ゆっくりなのに無限湧きの恐怖が全く無い。
ゾンビの恐怖が無い上に、この「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」以前に他のゾンビモノやバイオハザードモノで散々描かれた「人間が一番怖い」という説教もこの映画では取って付けた様な安っぽさ。

映画の構成としても演出としても微妙なのは中途半端な主観映像。
1999年の映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以降持てはやされた手持ちカメラのモキュメンタリーを、多分2008年当時でも今更感一杯だったろうに堂々としてしまっているけれど、映像は完全ドキュメンタリーではなく途中途中で編集が入り、音楽やナレーションを付けているので記録映像になりきれておらず、映画としても安っぽいので非常に中途半端になってしまっている。
映画の中では「編集された映像」が批判の題材にもなっていて、この映画内映像では「事実をそのまま記録する」と言っている割に、どう見てもゾンビとは関係の無い現実の過去のニュース映像を挟み込んでいる時点で、映画内の人物も見る人の気分を上げる効果を狙って嘘を挟み込んでいる事になってしまっているし、ゾンビが出て来そうな所で不気味な音楽付けて安っぽいホラー映画と変わらない仕上げにしているので、もう何処向いているのか訳が分からない。
これって、登場人物達が安いホラー映画を撮影しているからドキュメンタリーのはずの映像が安っぽいホラーになってしまっているという映画業界への皮肉かとも思ったけれどどうも違うだろうし、編集されていない事実を映した映像なんて存在する事は無い!という主張かとも思ったけれど、それにしてはその主張の押しが弱いしで、ただただよく分からないだけ。

やたらと多用されるナレーションによる説明台詞もうっとおしくて仕方なかった。
このナレーション入れるなら途中に出て来る編集された映像の件はいらないし、そもそも説明台詞を後乗せで全部語ってしまう手軽さ、安っぽさったらない。説明台詞の多用で説教臭いだけになっていたし。
これもナレーションによる説明台詞に対する皮肉なんだろうか?
確かにこの頃前後の日本のドラマとかだと、チラッと見た感じでも説明台詞が多くてウンザリしていたけれど、アメリカの映画やドラマもそんな感じだっけ?と思ったのだけれど。
それとも、結局学生程度の素人のやる事なんて、この程度でしょ?という皮肉なんだろうか?

それに、事実をそのまま撮影している設定ではあるものの、カメラはきちんと喋っている人のバストアップばかりの映像で、登場人物達はまるで脚本に沿って各自が順番に喋っているかの様な綺麗な台詞割りも嘘臭さしかない。
普通あの状況なら、各自が勝手に喋ってしまって何処を映せばいいのか分からないというカメラの動きがあってもいいのに、そんな場面も無かったし。
一番不自然に感じたのは、序盤にキャンピングカーで移動中にゾンビに出くわして轢いてしまう場面で、ゾンビに初遭遇して自動車の前にゾンビが立ってこちらに向かって歩いて来れば普通ゾンビを映すはずなのに、車内の人物達のリアクションを押さえているって、このジェイソンってバラエティ班のカメラマンなのか?
ゾンビを殺した後に教授の顔のアップで一言言うとか、もう何処がドキュメンタリーなの?昔のハリウッドのアクション映画じゃん。

つまらないのは展開も。
キャンピングカーを運転していた学生が行き成り銃で自殺する場面から、早くも意味不明。
悩んでの自殺や、そもそもこの学生が何かしら精神的に問題を抱えていたり、精神的に弱いという描写がそれより前にあれば少しは納得出来るけれど、本当に突然でポカーン…。
銃も前振り無く出て来て、登場人物が「銃なんて何処にあったんだ!?」と言うけれど、それは見ている方のツッコミ。
一方で、自分の彼氏が噛まれて死んでしまい、ゾンビとなって復活したので撃ち殺したトレーシーはその後は彼の事に一切触れずに落ち込む様子も無く、このトレーシーの考えている事も分からないし、その後もその事に全然触れないのならそもそも彼氏がゾンビになって殺したという展開は必要無いので、この件を入れた意味さえ不明。

その後、学生寮に行ったり、町に行ったり、農家に行ったり、豪邸に行くけれど、それらの行動に何も意味を見出せない。
社会が崩壊してしまったので、何処に行けばいいのか分からなくなり、当ても無く彷徨っているのを表現しているとしても、何処の場所でも特に盛り上がる事無く過ぎ去るだけで、まあ退屈。
農家で出会った耳の悪い老人の場面は突如コメディになるし、終盤でゾンビに追い駆けられるトレーシーを助けずにジェイソンが撮影し続ける場面も、わざわざ初めのホラー映画の撮影と重ねて間抜けなゾンビにし、トレーシーが枝でゾンビを殴り倒したらカントリーがかかるとか完全におふざけの滑りまくりな演出もしてしまい、何でそれまでの雰囲気ぶち壊してまでちょっとした笑いを取りに来ているのだろう?と疑問ばかり。この悪乗り、いらないだろ。

何処に行っても盛り上がりに欠け、登場人物達も役が立たずに特に意味も無く死んで行ったり、トレーシーが突如キャンピングカーを盗んで一人でどっかに行ったり、急に州兵が出て来て物資を奪って行くとか、結局それで何を見せたかったの?と思える事が頻発。
まるで脚本に対して周りからあれやこれと言われて現場で手直ししまくったかの様な、分断されたミニエピソードの連続。
既に原作コミックスは出版されていた「ザ・ウォーキング・デッド」の様なテレビドラマをやりたくて失敗したかのよう。

謎なのはゾンビの扱い。
ジョージ・A・ロメロの「~・オブ・ザ・デッド」なので、他のゾンビモノやバイオハザードモノとは違い、ジョージ・A・ロメロのゾンビは理由は何であれとにかく死んでしまったらゾンビとなって生き返るという設定はあるものの、ゾンビに噛まれると致命傷でなくとも何かの病気や毒物かの様に衰弱して結構早くに死んでしまいゾンビとして生き返るんだけれど、こんな設定って今までのジョージ・A・ロメロのゾンビモノにあったっけ?
「ゾンビは食欲だけが残り、人を襲って食べるので、殺されても食べられてしまうのでゾンビは増えないんじゃないの?」というジョージ・A・ロメロのゾンビモノの致命的な欠陥部分を正す為にこんな設定にしたんだろうか?

それにこの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」って、この2008年の現代に始めて死者が蘇っているし、ゾンビも別設定っぽいので以前の「ランド・オブ・ザ・デッド」までの世界とは別世界・別時間軸になるのかな?

この映画、まだ若手の誰かが作ったゾンビモノなら「こんなのよくあるよね…」程度の粗製濫造されている映画で終わるけれど、これがジョージ・A・ロメロのゾンビモノなので、「ああ、これが歳を取ったジョージ・A・ロメロなのか…」とガックリした。
ただ、「死人はノロい。早く動いたら脚がもげる!」と言う台詞は、早く走ってしまう近年のゾンビに対する至極真っ当な説明と否定で、ここは流石ジョージ・A・ロメロ!とは思った。

☆★★★★

大魔神逆襲

2017年10月13日 金曜日

森一生監督、二宮秀樹主演の1966年の映画「大魔神逆襲」。
シリーズ三作目。

武将の荒川飛騨守は隣の国の木こり達を捕まえ、火薬を作る為の硫黄採掘場で無理矢理働かせていた。
その採掘場から逃げ出した一人が自分の村へと帰り着き、村人に事情を話すと、木こりの幼い息子達が親を助け出そうと子供達だけで魔神の山を越えようとする。

二作目の「大魔神怒る」が録画失敗していたので、一作目の次に見たこの三作目。

この大魔神シリーズは一作目の「大魔神」もそうだったけれど、大魔神が現れてからの特撮が見事ではあるんだけれど、そこまでの話が退屈で、この「大魔神逆襲」は更に大魔神までの話が退屈でつまらなかった。

確かに山等の風景は美しく、その外での撮影は抜群に画力があるけれど、子供達の冒険話はのっぺりとして盛り上がりが無く、子供達の会話劇がおもしろいはずもなく、結局大魔神がどうにかすると分かり切った展開なので木こり達を子供達が助けるなど微塵も思わず、「さっさと大魔神を出せ!」とばかり思ってしまう。

その大魔神も出現理由や行動原理がいまいち分からない。
魔神を信仰している村人が死んでも大魔神が出て来る訳でもなく、子供が身投げしたから出現したのか、魔神の使いである鷹が撃ち殺されたから出て来たのかが曖昧で、子供を苦しめたから武将を配下まとめて皆殺しにしたのかもいまいち分からない。
子供達を鷹であったり大魔神本人が助けたりするんだけれど、何故子供達を助けるのかは分からず、一方で川で流された子供は魔神も鷹も全くの見殺しだし、そもそも魔神の山に子供が入り込んでもそっちを問題にせず、大人なら無断で山に入った罰で殺されるかもしれないのに何故子供だと大丈夫なの?
一作目の自然の象徴とした怒れる神だった大魔神が安っぽい子供の味方の大怪獣みたいな扱いになっている様にしか思えなかった。
ただ、子供達が主人公であり、子供達の冒険なので子供向け映画に思えたけれど、あっさり子供が死んでしまうし、親も簡単に殺されるし、怯えていても次々と多くの敵を殺して行く大魔神とか結構陰惨な話だったりもして、何処を狙っての映画なのかいまいち分からない方向性。
大人向けだった一作目を特撮映画という事で子供向けを狙った為に方向性が変な向きに曲がってしまった感じばかり。

話は退屈だし、?も多いけれど、映像は流石。
当時の映画の力が発揮され、ロケーションでの山や自然の景色は抜群に良いし、セットも屋外セットも屋内セットもお金と手間がかかっているだろう凄さと美しさ。
特に雪は良く出来ているなぁと感心。
大魔神出現後のセットの破壊も見ていて楽しいし、出来栄えが素晴らしいし。

シリーズ二作見て興味が行ったのは、日本各地に大魔神の像があるという世界観。
埴輪っぽいので相当昔から祭られていたのだろう魔神が幾つも日本中にあり、それが怒って出現して人々を困らせたり助けたりと、日本の宗教観を具現化した様な大魔神で幾らでもシリーズが続けられるというやり方もおもしろかった。
ただ気になったのは、毎度毎度大魔神が出現して破壊が満足したら魔神像が粉々になってしまうのだけれど、粉々になっても元々像があった所には像が戻っているのだろうか?
粉々になっているのであれでお終いだと思うけれど、そうなると魔神の怒りって一回だけの使い捨てで、魔神の本体?はどっかに行ってしまうという事なんだろうか?

この映画、本来はもっと続編を作る予定だったらしいけれど、赤字でシリーズ打ち切りになったのも分かる。
子供向けなのか大人向けなのか中途半端な作りと、毎度人々が酷い目に合い続けてからの大魔神の登場という使い回しの展開なので既に三作目で飽きられたという事だろうし、何より大魔神が出て来るまでが退屈なのでもっと色々工夫すべきだったと思ってしまった三作目。

☆★★★★
 
 
関連:大魔神

大魔神

2017年10月12日 木曜日

安田公義監督、高田美和主演の1966年の映画「大魔神」。

丹波の国の領主である花房家は家老大舘左馬之助の謀反によって花房忠文と小笹の兄妹だけが生き残った。
花房家に仕えていた猿丸小源太は巫女の叔母を頼り、兄妹二人を山の魔神を祭る山奥へとかくまった。
十年が経ち、大舘左馬之助が領民を酷使して権勢を誇っており、忠文と猿丸小源太はお家再興を目論むも失敗。
そこへ封印されていた魔神が復活した。

わたしは映画大魔神シリーズは一切見た事ないのに、この大魔神というキャラクター?は知っていたので、どんな映画かと見てみた。

終盤まで終始花房家の滅亡と復興話で、大魔神が登場するのは終盤十数分だけなのでつまらなかった。

そもそも全体の大部分を占める滅亡と復興話がつまらなく、良い殿さま風の花房忠清は余所者の大舘左馬之助に簡単に謀反を成功させてしまう位、家臣が敵方に回る位人望が無いとか、何で大舘左馬之助は余所者だったのにあれだけ周りから支持されていたのか?とかが描かれないので、結構置いてけ堀。

十年後も大舘左馬之助が如何に悪い奴で、それに耐えて耐えての大魔神降臨の展開にしたいのは分かるけれど、終始花房家側が皆アホでコントみたい。
猿丸小源太は十年間も他の仲間と連絡を取らずにおり、本気でお家復興をするつもりだったのか分からない人物で、行き成り「よし!やるぞ!」と山を下りると速攻で捕まってしまう間抜け。
同じく忠文も猿丸小源太を助けに行って、まんまと罠にかかって捕まるし、巫女は大舘左馬之助に文句言いに行って当然の如く殺されるだけで役に立たないし、小笹も偵察に行って直ぐ捕まるし、全員何かすると失敗しかしないという冗談の様な展開。

大魔神の復活もよく分からない。
小笹の気持ちに答えた風なんだけれど、小笹が大魔神に対して凄い信仰心があった訳でもないし、小笹が滝に身を投げようとして、身を投げた訳でもないのに大魔神が復活する。
その後、大舘左馬之助側の兵を殺しまくって忠文と猿丸小源太を助けるのだけれど、それが終わると罪もない領民を殺そうとしてしまい、大魔神の行動原理がさっぱり分からない。

それに大魔神は、あの武神の石像の下に魔神が封印されていると話だったけれど、武神像が動き出し大魔神に変わった後に、どうやら魔神の本体らしい光球が飛び回って城付近に現れ、それが地面にぶつかると大魔神が現れるって、結局石像が歩いて来たのか、あの光球になって移動して来たのか、そもそも石像に光球が入って大魔神になったはずなのに初めの石像が動き出した時点ではそれが無くて、物凄い適当な感じばかり。

ただ、大魔神の壊すセットや合成は見事。
大魔神がそれ程巨大ではないのでそれに合わせてセットも大きく作ってのミニチュア感の余り無い良く出来た特撮になっていたし、合成も浮いた感じではなかったし、遠近感が違和感無く見れて、今見ても結構見応え十分。
しかし、大魔神の登場が少ないので物足りなさが結構あった。

この映画、主人公側が皆アホなので盛り上がりに欠けるし、大魔神登場までが長いので大分退屈で、特撮としてはおもしろいけれど映画自体は非常に微妙な出来。

☆☆★★★
 
 
関連:大魔神逆襲

ビバリーヒルズ・コップ

2017年10月11日 水曜日

マーティン・ブレスト監督、ドン・シンプソンジェリー・ブラッカイマー製作、エディ・マーフィ主演の1984年のアメリカ映画「ビバリーヒルズ・コップ(Beverly Hills Cop)」。

デトロイト市警のアクセル・フォーリーは上司の命令を聞かず、無茶な捜査をして怒られていた。
アクセル・フォーリーの元に旧友が久しぶり訪ねて来るが何者かに殺されてしまう。
アクセル・フォーリーは友人の話を頼りにビバリーヒルズへと向かい、犯人を捜し始める。

エディ・マーフィの出世作であるヒット映画なんだけれど、今見ると大しておもしろくない。
無茶をする刑事が手八丁口八丁で無茶をしながら事件を解決して行くって、まさに1980~1990年代に粗製濫造された刑事アクションコメディの典型作で、今更これを見せられても…としかならず、この当時に見ておくべき映画だったと思う。

それにどの要素も非常に中途半端。
エディ・マーフィの無茶も今見ると大して無茶でも無いし、犯人を追い詰めて行く捜査モノとして大しておもしろくないし、最終的に問答無用で皆殺しというハリウッドのB級アクション映画の典型で強引に締めるし、エディ・マーフィの喋りも時々爆発的に喋るけれどそれも多くなく、アドリブ交じりの自由な感じではなくきっちりと台詞を喋っている感じでぎこちなさもあるし、展開はもっちゃりしていて間延びしているし、至って退屈。

おもしろかったのは、エディ・マーフィを敵視していたビバリーヒルズ警察の面々を徐々に味方にして行くという展開。
警察でもむやみやたらと敵対したり、実は警察が黒幕だった的なしょうもない展開よりも、この仲間化して行く展開は好き。

あと、流れる音楽が一々ダサい。
わたしは結構1980年代の80’s ポップは好きだけれど、それにしてもこの当時の流行の音楽は聞いていても、「うわ~!時代!時代!ダサい!ダサい!」だった。

この映画、今見てしまうともっさり感ばかりで、エディ・マーフィのおもしろさも爆発仕切れず、何処を取っても弾き切れていない感じ。
正直、何でこの映画がヒットして続編も作られたのかが今だとよく分からなかった。

☆★★★★