宇宙大作戦 シーズン1

2023年04月17日 月曜日

日々うんこの様な事がマリマリなので、アマゾン プライムビデオを見て何かおもしろいモノはないかな?と思って探していたら、「スタートレック:ピカード」が目に入り、そう言えばこれは全く見ていなかったので見てみようかな?と思ったのだけれど、「スタートレック:ピカード」の主人公であるジャン=リュック・ピカードが登場した元々のドラマ「新スタートレック」は大分前に深夜にテレビで放送していたのを途中から見始めたので何処から見出して最後まで見たの分からないので、まず「新スタートレック」を見ようかと思ったけれど、それならCS放送無料の日に数話だけしか見ていない大元の「宇宙大作戦」をまず見てからと思い、Netflixで「宇宙大作戦」を見始めた。

わたしはスタートレックシリーズでは「新スタートレック」「スタートレック:ディープ・スペース・ナイン」「スタートレック:ヴォイジャー」「スタートレック:エンタープライズ(途中まで)」を見た程度のファンで今回本格的に「宇宙大作戦」を見たのだけれど、ある程度スタートレックシリーズを見ていて、かつ「宇宙大作戦」が1966~1969年の低予算テレビドラマだと分かっていても中々きつい部分が多かった。
セットや小道具が安っぽいのはまだ飲み込めるのだけれど、話がいまいちおもしろくない。
もっと詰められそうな部分で変な間延びがあったりするのは1960年代のドラマだからというのはあるのだろうけれど、気になる部分が投げっ放しでよく分からないままとか、まだシーズン1なのにネタの使い回しの様な感じの回が多いというのがあって話に乗って行けず。

投げっ放しで驚いたのが5話の「魔の宇宙病」で、話はクルーが病気でおかしくなってしまうというモノなんだけれど、最後になって突然タイムワープし始めて過去に戻ったと言い出し、そこから直ぐに現在に戻ってそのまま終わってしまう回で、見ていても何これ?でポカ~ン…。
余りに意味不明なので調べてみたら、元々は20話の「宇宙暦元年7・21」での過去に戻る話をする為の導入として作られ、前後編にするつもりだったのが二つに分けられたかららしい。
ただ、それでも別の二話に分けたなら最後のタイムワープはいらないのに残したのがよく分からない。

それよりも酷いと思ったのが9話の「400才の少女」で、これでは地球から大分離れた惑星に降りたら、そこは何故か1960年代のアメリカっぽい街だったのだけれど、この部分は特に解明する事も無くほったらかしのまま、この星では大人になると病気で死んでしまうという話に移ってしまって何故地球の町になっていたのかは全く不明のままで投げっ放し。
何も説明せずに終わったので、え~!!でびっくり。
こういう一番の引っ掛かりが投げっぱなしジャーマンでほったらかしって当時のアメリカドラマでは結構普通だったのだろうか?

使い回しも結構多く、クルーがおかしくなる。同じ人の別人が現れる。神の様な存在に振り回されるという展開が序盤に結構何度もあり、そこら辺で既視感と言うか、まだシリーズ1なのにネタ無いの?と感じたりで結構興味が折れてしまった。

あと、これも低予算だからなのか、登場する人物は地球人が多く、スタートレックと言えば色んな宇宙人が出て来ての楽しみが少なかった事や、エンタープライズ内部だけでとかセットだけで済んでしまう話も多くて宇宙モノなのに宇宙でのエンタープライズの活躍が少なかったのも物足りなさ過ぎた。

低予算とは逆にNetflixではデジタルリマスター版での配信で、このリマスター版って製作費があったからなのかエンタープライズ等の特撮場面はCGになっており、これが寧ろお節介。
わざわざ1960年代のSFドラマとして「宇宙大作戦」を見ているのだからオリジナルの特撮でいいじゃん。オリジナルの特撮が見たいのに。

驚いたのは、スタートレックシリーズでお馴染みのロミュランやクリンゴンはこのシリーズ1では1話だけしか登場していなかった事。
もっと出ていたから人気種族になったのかと思っていた。
これも低予算だからかロミュランもクリンゴンも額のでっぱりが無くてほぼ地球人と変わりがなくて違和感だし、クリンゴンのクリンゴン感の無さはだからウォーフも触れて欲しくないのか。

レギュラー陣もジェームズ・T・カークとスポックとレナード・マッコイは毎回出ているけれど、レギュラーだと思っていたモンゴメリー・スコット、ウフーラ、ヒカル・スールーがいたりいなかったりの回があるのも不思議。
これも製作費が関係しているのだろうか?

この「宇宙大作戦」では23世紀が舞台で、「新スタートレック」以降の24世紀以降が舞台のスタートレックシリーズの方がよく知っていると、百年近く前だから知っている惑星連邦や宇宙艦隊とは何か違う違和感を感じると言うより、「新スタートレック」が作られた1980~1990年代と「宇宙大作戦」が作られた1960年代の価値観等々の違いから来る違和感が結構あって、カークはゴリゴリに自分の価値観で相手を変えようとするし、スポックは論理的に今殺しておけと言って結構暴力的だったり、他のクルーも結構暴力的攻撃的で直ぐフェイザーをぶっ放すしでクリンゴンと大して変わらない様な感じだし、クルーは精神が結構不安定で直ぐおかしくなるし、上官が喋っている途中で割って入って反論批判したり、皆が情報共有せずに自分だけで何とかしようとしたりと、結構野蛮だし混沌感がある。
これって1960年代っぽさなのか、単に脚本の展開が先行して人物描写が適当なだけなのか。
まあ、毎回の様に死者が出ていればクルーは皆こんな感じにはなるか。
あと、エンタープライズが攻撃を受けてコンソールが爆発する伝統は既にこの時からか。

登場人物は確かに魅力的で役が立っていて、カークは強引で独善的ではあるけれど魅力たっぷりで英雄的な感じ。
ただ、カークが上官だと問題は絶えなさそうで、あんまりついて行きたいとは思わない艦長。
スポックは後のヴァルカン人からすると結構感情的だし非論理的に見えるしで、ここら辺が地球人とのハーフだからで魅力なのか。
驚いたのがマッコイで、見た目からしてカークよりも大分年上に見え、ほとんどおじいさんの年齢だと思っていたら演じているデフォレスト・ケリーはこの時46歳。
ケルヴィン・タイムラインの方の映画シリーズでレナード・マッコイを演じているカール・アーバンが50歳だと思うと、このデフォレスト・ケリーの老け感は凄いな。
レナード・ニモイも35歳には見えない老けっぷりで、ウィリアム・シャトナーとは同い年で誕生日が4日違いって、この時代の役者の老け感って凄い。

日本語吹き替えは、多分以前にも見た事があるからだと思うけれど非常にしっくり来るんだけれど、日本での「宇宙大作戦」の最初のテレビ放送の時に放送時間の都合でかカットされた部分があるらしく、そこは当時の吹き替えが無いので後から追加で吹き替えが収録されたそうで、これが物凄く違和感。
始めの放送から三十年位経ってからの追加収録なので仕方が無いのでしょうがないんだけれど、声優も歳を取っているので声が変わっていたり、既に鬼籍に入っていたりで声優が変わっているので、カットが変わると突然カークの声がおじいさんになっていたり、同じ場面でも次の台詞になると登場人物の声が別人になったりと見ていると結構クラクラして来る。

日本版のオープニングでも気になる部分があり、若山弦蔵のナレーションが終わり切る前に曲が始まってしまうのが毎回物凄く気持ち悪い。

おもしろかったのは1話目のカークが船長ではなくクリストファー・パイク船長が主役のパイロット版「歪んだ楽園(The Cage)」
見る前に色々調べてから見たので、この「歪んだ楽園」は初めには見ずに2話目から見始めて12話目の「タロス星の幻怪人(前編)」の前に「歪んだ楽園」を見てみた。
そうすると慣れたカークの物語ではなくカーク以前の船長だったクリストファー・パイクの物語が前日譚としておもしろく、しかもこのパイロット版を使ってその後を描いた「タロス星の幻怪人」もおもしろく見れ、色々と興味深かった。
カークの方で慣れていると後から見て前日譚をパイロット版でしている事とか、クリストファー・パイクが船長で士官としてスポックがおり、スポックのメイクもまだ前段階で違っていて若い感じだし、副長に女性のナンバー・ワンがいて、このナンバー・ワンが結構冷静沈着でやたらと役が立っていて、このクルーの物語がもっと見たくなってしまった。
と思ったら、アメリカではこのクリストファー・パイク以下のクルーによるドラマ「Star Trek: Strange New Worlds」が始まっているのね。
予告編を見てみたら、今時のお金をかけている感じで「歪んだ楽園」の雰囲気は無い感じだけれどこれはこれでおもしろそう。
ただ、クリストファー・パイクって最後は「タロス星の幻怪人」での意識はあるけれど何も反応出来ない体になって箱に詰められ、ランプの点滅回数だけでしか答えられない存在になり、そこから少しでも幸せであろう幻影の世界に去って行くという結末になると思うと物凄く切ない。
「Star Trek: Strange New Worlds」ではクリストファー・パイクの最後をプライム・タイムラインと同じにするのかどうするんだろう?
「歪んだ楽園」「タロス星の幻怪人」の流れで見るとクリストファー・パイクにはまってしまう。

1話目で言えば「宇宙大作戦」が不思議なのはドラマとしての1話目が無い事。
カーク船長でのパイロット版である「光るめだま」も、「宇宙大作戦」の1話目になる「惑星M113の吸血獣」も、「歪んだ楽園」でもクルーが集まって初めてエンタープライズが出航して宇宙に飛び出すみたいな事が特に無く、どの時点でももう既にエンタープライズでの生活が続いているという状態で、1話目らしい始まりが存在していないのって何故なんだろう?
「宇宙大作戦」が特殊なのか、この時代のアメリカドラマってこういうやり方が結構あったのだろうか?

違和感は制服も。
24世紀の方のスタートレックシリーズを見慣れているとブリッジの士官の制服が黄色なのがどうにも違和感。
黄色の制服と言えばマイルズ・オブライエンを代表とする様に技術系の士官という印象が強過ぎて船長のカークが黄色なのがどうにも馴染めない。

あと、制服は下に黒いシャツを着て、その上にそれぞれの色の服を着ているのかとずっと思っていたけれど、この制服は首付近の黒い部分が色の服に縫い付けてある仕様なのも意外だった。
カークが戦いで服がビリビリになって首回りの黒い部分が縫い付けてあるのが分かったけれど何で首周りだけ別でなのか?とか、あの服一枚だけで素肌に着ているのが正式で一枚だけって気持ち悪くないのか?とか思ったりした。

今見るとピンと来ないのは「宇宙大作戦」の先見性や先進性が当時はどんな感じだったのか?という部分。
転送は今でもSFだけれど、シャトルで惑星に上陸するとその分特撮や撮影でお金がかかるからの転送と言う発想だと知ると、SFと言うよりも寧ろ低予算から転送を思い付いた方に感心してしまう。
通信機もトランシーバーの延長線上にあったからそれ程目新しくないのかと思うし、個人で通信機を持っているのに船内だと館内放送が入るとわざわざ壁に付いている通信機まで行ってスイッチ押して答えているのって、当時から通信機持ち歩けばいいじゃん!だったのかがよく分からず。
ウフーラが耳にはめている機器が単なるイヤホンなのか、見た目がマイクロフォンっぽいのでマイクも付いているのか分からないけれど、これも当時のSF感からすると進んでいたのかあるあるだったのかもピンと来ず。
登場人物達が何かを書いているらしいタブレット端末みたいな物も、それにカメラが寄らないので何なのかはっきりせず、見た目だと電子機器っぽくなく、しかも下士官が持って来てそれに何か書き込んで下士官が持って行くので、バインダーに挟まった紙に鉛筆で書いている感しかしなく、これも当時としてはSF感はあったのだろうかとピンと来なかった。

今回本格的に「宇宙大作戦」を見始めてシーズン1を見終わったけれど、どうにも微妙な話が多く、結構ながら見状態になってしまう事も多かった。
シーズン2・3と見るけれど、「宇宙大作戦」以降のスタートレックシリーズを見ないで行き成り「宇宙大作戦」から今「宇宙大作戦」を見ると大分きついと思ってしまい、もしわたしがスタートレックシリーズをある程度見ていないで新たにスタートレックシリーズを見ようと何も知らない状態で「宇宙大作戦」を見ていたら多分シーズン1の途中で止めていたと思ってしまった。
 
 
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