新・少林寺三十六房

2026年08月28日 金曜日

ラウ・カーリョン監督、シャオ・ホウ主演の1980年の香港映画「新・少林寺三十六房(少林搭棚大師 Return to the 36th Chamber)」。

幼い頃から武術を学び、自分の力に自惚れて周りと騒ぎばかり起こしているフォン・サイヨは、たまたま出会ったサンダ和尚を逆恨みし、サンダ和尚を匿っていると思い込んで武官達の下へ乗り込んで騒ぎを起こしてしまう。
このままではサイヨの身や家に危険が及ぶと思ったサイヨの母親はサイヨを兄弟と共に少林寺のサンダ和尚に預け、匿ってもらう事にした。
少林寺の三十六房で修行する事となったサイヨだったが、修行を真面目に取り組まず寺の外へと抜け出して提督府の祭りを見に行き、少林寺を脅威と考えて対処したい提督に利用されて大騒動となる。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、リュー・チャーフィーの映画を見たので、一作目の「少林寺三十六房」。二作目の「続・少林寺三十六房」と続けて見た。

何時の時代でもの勝手な邦題で三部作の様になってはいるけれど、二作目もリュー・チャーフィーは一作目の主人公サンダ和尚は演じていなかったし、この映画も原題からして別に続編でもなく、しかもリュー・チャーフィーが主役でもない映画で、あくまでリュー・チャーフィーがサンダ和尚を演じていて少林寺の三十六房が出て来るというだけの関係性。
まあ、そこはいいとしてもこの映画は主役が全く良くないし、脚本も適当でつまらなかった。

主人公は既に拳法を学んで強いという設定で、それに慢心して誰に対しても何事に対しても常に挑発的、攻撃的で突っかかって行き、それによって揉め事を起こし、しかもそれを全く反省せずに更に揉め事を起こしているばかりなので、見ていても、まあうざい。
こういう主人公で少林寺で修行となれば、出来ない事が出て来て挫折したり、悩んだり、何かを感じて成長する話になるかと思いきやそういう事は全くなく、主人公が修行をさぼってサンダ和尚に怒られてサンダ和尚と僧達に打ち負かされるけれど主人公は特に何も思わないし、変化も無いという事を繰り返すだけで、主人公は変わらずさぼるし、騒ぎを起こし続けるだけ。
これを見て何が楽しいんだ?という展開で、こんな周りに迷惑をかけ続けるだけの主人公で最後はどうするんだ?と思ったら、ズルしてサンダ和尚に怒られてお終い。
こういう主人公でのコメディなんだろうが、主人公は周りの人々に迷惑かけようが、近い人々が傷付こうが最後まで反省する事も成長する事も無いままって、これの何がおもしろいんだろうか?

主人公はどうしようもないのだけれど、主人公を演じているシャオ・ホウは体はムキムキで引き締まっているし、体の動きは機敏で動きだけなら非常に良い。
ただ、こんな主人公なのでクンフー場面でも主人公に身が入って行かずに流し見になってしまうので勿体無かった。

一方のリュー・チャーフィーは、一作目のその後のサンダ和尚の様な感じで、眼力鋭く、全てを分かった感じの佇まいは非常に良いのだけれど完全に脇役なので出番も少なく、拳法を見せる場面も少なくてリュー・チャーフィーを見るには物足りない。
でも、最後の方で短めの三節棍の様な武器を使っており、ここら辺は一作目を抑えて来ている感じがあった。

三十六房は相変わらず無茶な修行をしてはいたけれど、両脇の壁を登るとか、水の中の丸太を持ち上げるとか、余り突飛でもなくなり、一作目がやり過ぎではっちゃけていただけに回を増す毎に尻すぼみで普通の修行になってしまう感じは否めなかった。

話は、主人公が自分勝手に考えて、身勝手に行動して行って周りが迷惑を被るというだけなのでおもしろくはないし、広東会館があれだけ狙われて揉めたのに母親のあの対応だけで済んで終わったの?とか、最後も提督とあれだけ揉めて戦いにまでなったら少林寺もそうだし、主人公の家に何らかの罰があったり処刑されたりするだろうに特に何もなく終わるし、初めはあれだけ主人公と共に見せていた主人公の兄弟達も少林寺に入るとぱったりと出番が無くなって、そう言えばいたなぁ…となってしまう人物になり、脚本がその場その場で書きなぐったかの様な適当さで見ていてもどうでもよくなってしまった。

この映画、リュー・チャーフィーが「少林寺三十六房」以来サンダ和尚を演じているからシリーズ作みたいにはなっているけれど、リュー・チャーフィーは主役でもないし、そもそもリュー・チャーフィーの登場自体は少なく、主人公は見ていてもいらつくだけの自分勝手な馬鹿が何も学ばないので、シリーズではないけれど三作の中では一番つまらなかった映画でした。

☆★★★★
 
 
関連:少林寺三十六房
   続・少林寺三十六房

続・少林寺三十六房

2026年08月25日 火曜日

ラウ・カーリョン監督、リュー・チャーフィー主演の1980年の香港映画「続・少林寺三十六房(少林搭棚大師【少林寺三十六房續集】Return to the 36th Chamber)」。

僧侶に化けて怪しい薬を売ったり、お布施を集めて回る様な生活をしていたチェンチェ。
彼の兄が働いている染物工場では工場主が満州人を雇って従業員達を厳しく監視し、賃金を下げた。
それに反発した兄や従業員達を鎮める為に暴力を使って暴行した事にチェンチェは腹を立て、少林寺のサンダ和尚に化けて染物工場に乗り込み、従業員達の賃金を元に戻す様に説得しに行った。
初めは染物工場の人々に拳法の達人サンダ和尚だと信じさせていたが、クンフーが出来ない事がばれてしまい返り討ちにあってしまう。
兄や従業員達を救いたいと思ったチェンチェは拳法を習う為に少林寺に忍び込もうとする。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、リュー・チャーフィーの映画を見たので、以前一作目の「少林寺三十六房」は見たけれど改めて見直してから見た続編。

一作目ではリューからサンダとなった主人公が終盤に急に町の人々を集めて仲間にして戦い、最後はサンダが作った新たな少林寺三十六房でその仲間達が修行を始めた所で終わったので、その続編となれば修行を終えた仲間達を引き連れたサンダが活躍したり、もしくは仲間を主役にした話になるのかと思って期待して見たら全然違った。
確かに少林寺三十六房の話だし、構成も初めは少林寺に行って修行する理由から、中盤は修行。最後に習った拳法を使った復讐と一作目と同じ様な流れなんだけれども、勝手な邦題「続・少林寺三十六房」や原題にも「少林寺三十六房續集」と付いてはいるのに一作目からの完全な続編でもなく、あくまで少林寺三十六房を扱った別の話。
一作目とは全く関係無い町の人が工場主から酷い目に合っているので、それを解決する為に主人公が少林寺に行くという話で、一作目とは無関係。
一作目が清による支配が厳しくなった中で清の役人に対する抵抗で少林寺に行った事を思うと、この続編は導入が非常にこじんまりしてしまっていて、見ていても余り盛り上がらないので乗りが悪かった。

修行も一作目は大分弾けた無茶苦茶な修行ばかりで笑ってしまったけれど、それに比べるとこちらも修行はこじんまりしていて、修行での盛り上がりも大分落ちてしまっていた。
一作目は真正面から修行しているのを見せていたけれど、この続編では主人公は少林寺に何とか紛れ込んだ立場なので正式な修行がさせてもらえず、ずっと足場組みをさせられて、それが修行になっていたという、ちょっと捻った展開なので、やり過ぎな修行を各種取り揃えて見せていた一作目に比べるとどうしても弱かった。

ただ、逆に終盤の復讐の戦いはこちらの方がおもしろく、一作目はあれだけ色んな修行をしたのにその技を余り見せなかったけれど、この続編では敵の棒を上手く操って敵の手足を竹の紐で結び付けて身動き出来ないようにしたり、足場の悪い所でも主人公は自由に動けたりとずっと足場組みをしていた修行の成果が役だった事をはっきりと出していて、こちらの方が見せ方としては良かった。
竹紐で次々と縛って行くのはおもしろい発明の功夫。
でも、主人公はほとんど拳法の修行はしておらず、人との実戦的な訓練もしていなかったのに、敵の拳を受けたり、自ら拳法を上手く繰り出せたのはどうなの?とは思ったけれど。

おもしろかったのはリュー・チャーフィーの主人公の役柄で、これまで見たリュー・チャーフィーの映画ではリュー・チャーフィーは真面目な役ばかりだったので、この映画の道化的な感じの役が新鮮だった。
こういう悪ふざける役も中々良い。

リュー・チャーフィーは一作目とは別人を演じているので当然サンダ和尚は別の人が演じていたけれど、わたしはてっきりサンダ和尚もリュー・チャーフィーが演じ、だからちゃんと続編になっていたり、サンダ和尚と主人公がそっくりなので目をかけて気にしたという事になるのかのと思っていた。
結局サンダ和尚は上手い事紛れ込んだ主人公にちょっと興味を引かれて目をかけたという理由だった様で、その主人公のズルした立場に周りの修行者が何も言わないは色々と省いた感じはした。

一作目を見ていなくても分かる内容ではあるけれどサンダ和尚や少林寺三十六房についての説明がほとんど無いので、一作目を見ていないとここら辺が分からないのは結構不親切かと思った。

この映画、続編なのに一作目の話とはほぼ関係が無く、リュー・チャーフィーが少林寺に行って房で修行する所と、全体の構成が大体同じ事位しか似ておらず、しかも一作目の方が話も修行も派手でおもしろかった分、二作目になって全体的に萎んでしまった感が強くなり、リュー・チャーフィーの人間的な役柄と最後の竹紐拳が見所位だったかなぁと思った映画でした。

☆☆★★★
 
 
関連:少林寺三十六房

霊幻少林拳

2026年08月19日 水曜日

ラウ・カーリョン監督、ワン・ユー主演の1979年の香港映画「霊幻少林拳(茅山彊屍拳 The Shadow Boxing)」

遠方で死んでしまった人を呪術でキョンシーにして、そのキョンシーを操り、キョンシー自らに歩かせて故郷まで送る事を生業としている道士チェン・ウーと弟子のユエン。
八体のキョンシーを送り届けようとしている所に更に一体の死体が運ばれて来た。
九体のキョンシーを運ぶ事となったチェン・ウーとユエンだったが、そこに結婚したくないから逃げ出して来たユエンの友人フェイフェイが加わる。
賭け事好きのチェン・ウーは宿泊した町の賭博場でいざこざを起こして足を怪我してしまった。
これ以上歩けなくなったチェン・ウーはユエンとフェイフェイにキョンシーを運ばせる事にしたが、キョンシーの中の一体は上司の不正を暴こうとして濡れ衣を着させられて指名手配犯となってしまった役人で、キョンシーに成り済まして検問を切り抜けようとしていた。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、リュー・チャーフィーの映画も見ようと思って見た映画。
ただ、この映画、ソフト版だと表紙に大きくリュー・チャーフィーが映っているけれど、映画内では脇役の客演位の位置でリュー・チャーフィーは主演でもない。

この映画は1980年代中頃に映画「霊幻道士」が当たってシリーズ化されたよりも早い時期のキョンシー映画なんだけれども、話は主人公と女友達の関係性の笑いだったり、リュー・チャーフィーの方の揉め事が軸で、キョンシー映画だけれどもキョンシー映画でもない。

初めは道士がどうやって遺体をキョンシーにするかが描かれいるので恐怖映画として見ていたら、道士の師匠が博打ばっかりで中々キョンシーを運ばないので依頼主達が怒っていたり、町の人がキョンシーを怖がりながらも覗きに来たりとキョンシーが結構日常の存在として存在していて、お札が取れても「霊幻道士」の様に襲い暴れたりもせずにピョンピョン跳ねて勝手に何処かに行ってしまう位の暴走なのでキョンシーは怖い存在でもなく、段々と主人公組やリュー・チャーフィーの方の話に行くのでキョンシー自体の存在感が薄くなって行き、キョンシーの恐怖映画、怪奇映画ではなかった。

一方で登場人物達の個性が強く、出来る道士の師匠はとにかく博打が好きで、しかも何故か勝ちまくり、あちこちの賭博場で目を付けられて揉める。
主人公の弟子はまだ修行中の様で、物覚えが悪くて何時も呪術を迷うし、戦う時も誰かに指示されないと動きも出来ない出来なさなんだけれども人当たりの良さがあって可愛らしい主人公。
フェイフェイは結婚が嫌だと言っているけれど、どうやら主人公の事が好きらしく、でも主人公は仲の良い女友達位にしか思っていないのでプリプリしていて可愛らしい人物で、この三人の人物や関係性がおもしろくて、ここで楽しく見れてしまった。

初めの方から登場していたリュー・チャーフィーはずっとキョンシーに成り済ましているのだけれど、キョンシーの生態を分かっていないからなのか、時々キョンシーの通常の動き以外の動きをして主人公に怪しまれるを繰り返す位で特に活躍もしない。
リュー・チャーフィーがキョンシーに成り済ましているという部分ではおもしろいのかもしれないし、やたらとリュー・チャーフィーがハゲキョンシーと言われていじられ続けるのだけれど、リュー・チャーフィー側の話は展開が遅く、リュー・チャーフィーが人間として行動し始めるのが残り三十分位になってから。
そこから急にリュー・チャーフィーのカンフー映画になってしまい、これは何の映画だっけ?と思った頃にちょっとだけキョンシーを出しては来るけれど、やっぱりキョンシーの恐怖映画にするつもりは無かったみたい。

カンフーは、リュー・チャーフィーが鷹爪拳という指を相手に突き刺す様な拳を使ったり、主人公は誰かに「キョンシー跳躍!」「キョンシー回転!」と言われるとキョンシー的な動きで相手と戦うキョンシー拳を使うので、余り見た事の無い戦いが結構おもしろかった。

相変わらずこの時代の香港映画だからなのか、ショウ・ブラザーズの映画だからなのか分からないけれど最後はこれまでの話を補足しないまま終わり、一番の軸になったリュー・チャーフィーの話は結局どうしたのかは描かれず、戦いの時の台詞から、どうやら誰かに上司の罪を報告してめでたしめでたしになったっぽく、主人公とフェイフェイは仲良く一緒にいはしたけれどフェイフェイの結婚の話も主人公との関係も何も言及されないし、師匠は突然道端で子供達と石をかけて賭け事をしていて、最後にはこれだけ石を取った!で喜んでいたので師匠は何かあって壊れてしまったの?だし、それまで色々して来たのに特に話の結末を描かないので大分物足りなかった。

この映画、キョンシー映画、恐怖映画だと思って見たら違う映画で、でも主人公周辺の人間関係の話はおもしろかったし、何故かいじられるリュー・チャーフィーの方の話はもっと分量多くしても良かったのでは?と思うけれど展開としては良かったし、キョンシーを脇の一要素として使っている時々戦いがある道士物として見たら中々おもしろい映画でした。

☆☆☆★★

少林寺VS忍者

2026年08月15日 土曜日

ラウ・カーリョン監督、リュー・チャーフィー主演の1978年の香港映画「少林寺VS忍者(中華丈夫 Heroes of the East)」。

大家の息子アタオは日本人の許嫁の弓子と結婚した。
結婚生活は初めは上手く行っていたが、弓子は空手や柔道を会得しており、その練習に励み出すがアタオは中国武術を学んでおり二人の間でどちらの武術が優れているかで揉め始めてしまい、アタオに勝てないと思った弓子は怒って実家に戻ってしまった。
弓子に何とか戻って来てもらいたいアタオは使用人の入れ知恵で弓子への挑発として挑戦状を書いて送った。
この挑戦状を見た弓子の幼馴染の武野三蔵は日本の武道への挑戦だと言い、仲間を引き連れてアタオと戦いに来た。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、リュー・チャーフィーの映画も見ようと思って見た映画。

多分、企画としては1970年代に香港映画に多く出ていた倉田保昭がいて、だったら中国拳法と日本の色んな武道の対決映画作ったらおもしろそうじゃん?の発想から出て来て作られたんじゃないだろうかと思う映画で、その後半の対決部分は結構見応えもあっておもしろかったんだけれども、前半部分の夫婦喧嘩の部分も結構おもしろくて、そっちの前半部分が好みの映画ではあった。

主人公の家が何をしている家なのか分からず、何で香港?上海?の家の息子と日本の家の娘が許嫁になっているのかもさっぱり分からないのだけれど、その二人がほとんど会ってもいないのに結婚させられるという昔の家モノか、少女漫画の様な設定から始まり、中国と日本の文化の違いが揉める原因になったりとカンフー映画かと思いきや結構文化的な内容になっていて、この意外さに興味を引かれた。
中国では白は不吉な色、死に装束だから結婚式では着ないとか、正座して食事するのは罪人だとか、所変われば習慣も変わるのは当然な事をちゃんと見せていて「へ~」と思わせるし、日本での映画公開も見据えてかお互いに分かる様にそれぞれの文化の紹介もしている感じがあり、非常に気を使っている感じがした。
ただ、誰も弓子に中国側のしきたりの説明をしないのは何故なんだろう。
弓子が言葉が通じないならこの展開は分かるけれど、中国語ペラペラだし、誰か教えてあげてよと。
日本の一団もそうだったけれど、日本の剣士も負けたから自分の刀を差しだして受け取らなかったら侮辱だなんて、そんな仕来たり全世界共通だと思っているのか主人公に言わないし、皆まず説明しろと。
わたしもこんな仕来たり初めて見たけれどある事なんだろうか。

主人公と弓子が付き合いもほとんど無いのに結婚して、でもイチャイチャし始めると徐々に弓子の異常性が出て来て、まあ、空手や柔道を会得している良家の娘っていたのかどうかはさて置き、弓子が一人で訓練していたのはお転婆な感じがあって良かったものの、そこから不満が外にこぼれ出てしまって庭の壁や置物を壊し始めると弓子はお転婆とかではなく危ない人では?と思い始めてしまう。
更には弓子は何故か謎の忍術なるモノまで習得しており、主人公に勝てないので忍術による暗殺まで仕掛けて来る始末。
初めは付き合いも無かった新婚の若い夫婦の難しさや文化の違いがあって揉め、お互いの武術の違いが若さからなのかお互いに引けず揉めるという、カンフー映画なんだけれども文化の違う夫婦モノとしておもしろく見ていたのが弓子が危ない人に思えてしまうとちょっとサイコスリラーっぽく思えてしまった。

主人公は結構弓子を誘ったりと受け入れたりもしていたのに弓子は一切を拒否するし、何でここまで頑ななのかがさっぱり分からなかったけれど、まあ、ここで拒否しないと後半の展開にならないからなんだろうなぁ。
後半を見ているとしたかったのは後半のカンフー対武道の方で、前半の夫婦喧嘩は後半の為の振りでしかなかったんだと思った。
実際、話の導入はこの夫婦関係の話だったのに、最後は日本の一団と主人公が分かり合えたので良かったね!で終わってしまい、主人公と弓子との仲直りやその後の生活は一切描いていないし、何時の間にか弓子は主人公側に戻っていて、あれだけ拒否して揉めたのに弓子の心変わりが一切描かれていなかったし。

その後半の戦いは、まず導入が何だかよく分からず強引。
突然出て来た倉田保昭と弓子が幼馴染って、弓子は二十代前半位?昔ではあるので十代後半?に見えるのに、倉田保昭はおじさんで関係性がよく分からない。
そして、倉田保昭は何故か中国語も達者で、弓子への手紙を勝手に自分、自分達への挑戦だと思ってしまう。
ここら辺は倉田保昭は弓子が好きだったので弓子に自分の方が強いんだぞ、そんな夫には負けない、だから俺を好けという嫌らしい下心が満載という事なんだとは思う。
で、倉田保昭と関係性がよく分からないそれぞれ違う武道の達人らしき人達を引き連れて紋付き袴で船に乗って中国まで行ってしまう。

そこからは主人公の武術と日本の各武道との対決になるんだけれど、違う武道に対してそれに対抗出来る武術を使って戦って行くのは見栄えも変わっておもしろかった。
刀、空手、柔道は分かるけれど、釵とかヌンチャクとかトンファーは日本の武道の印象が無く、釵はエレクトラかティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズのラファエロの様なアメリカの忍者っぽい人の武器の印象だし、ヌンチャクやトンファーはカンフー映画の印象だし。
どうやら釵、ヌンチャク、トンファーは琉球古武術の物で、それがカンフー映画で使われて、そこからアメリカとかに行ったからの印象なのかと思う。

一応全員武術や格闘で戦って来たのに最後の倉田保昭が忍術で腰砕け。
忍術と言われてしまうと冗談みたい。
忍術は一応暗殺術の様にはなっていたので、まあ有りなのかとは思ったけれど、暗殺術なのでそれまで皆が正々堂々と正面からぶつかっての戦いだったのに倉田保昭は常に姑息に思えてしまった。
主人公を如何に騙すかから始まり、分が悪くなると逃げ出して自分が有利になる場所や仕掛けを用意した場所まで追い掛けさせて、常に自分が有利に、姑息に戦える様にしていて、最後の倉田保昭が急にしょっぱくなってしまっていた。
それに蟹形拳って何だよ。
横歩きで蟹の爪を素早く動かす様な動きが滑稽で更にしょっぱが増して笑ってしまった。
倉田保昭が主人公を倒したと思い、勝ったぞ!となっていたけれど、主人公は一人で別の六人を毎日違う武術で相手して勝っているのに最後だけ姑息な倉田保昭が勝ったから俺達の勝ちだ!になるって、やっぱりこの倉田保昭の役の小ささ、しょっぱさったらない。
最終的にお互いに分かり合えて良かったねで終わってはいたけれど、倉田保昭の役の動機、行動、結論が悪い敵役ではなくて、終始せせこましい小物だったので対決の話の尻すぼみ感は強かった。

それと、この日本人の一団、行き成り主人公の家の前の道で剣を振り回して戦うって、まあ近所迷惑。
まずは迷惑になるので人の来ない場所で勝負しましょうじゃん。

この映画、様々な中国武術と日本の武道を見せて戦わせるという意図では結構おもしろかったし、話はそこよりも前半の文化や価値観が合わない若夫婦の関係をカンフー映画として見せるのがおもしろかったのだけれど、そこが結局武術対決への振りでしかなく、最後はあんなに揉めた夫婦が元の鞘に収まってどうなりましたも描かずに終わってしまった事で酷い尻切れトンボ感しかなくて、見終わるとやりたい事をしたので本来の話の筋なんてどうでもよくなってしまった等閑な脚本の悪さを感じた映画の印象となってしまいました。

☆☆★★★

空とぶギロチン

2026年08月07日 金曜日

ホー・メンホア監督、チェン・カンタイ主演の1975年の香港映画「空とぶギロチン(血滴子 The Flying Guillotine)」

清の皇帝雍正帝は反乱分子を力でねじ伏せていたが、それに意見した家臣を気に入らず処刑させようとした。
しかし、処刑すれば皇帝に対する反感が更に起こるので暗殺した方がいいと家臣に忠告され、雍正帝は部下のシン・カンに暗殺を指示した。
シン・カンは暗殺用武器である血滴子を開発。
血滴子は離れた所から相手の頭に投げ付け、内側に出る刃で首を刈ってしまう武器だった。
血滴子を気に入った雍正帝はシン・カンに十二人の男を選ばせて暗殺部隊を作り、血滴子の使い方の訓練をさせた。
血滴子の使い方を学んだ部隊は家臣の暗殺を行うが、暗殺された家臣は忠臣と名高い人々ばかりで暗殺部隊の中でも疑問に思う者が出始めた。
暗殺部隊にいた内通者によってその事は雍正帝に伝えられ、暗殺部隊の同じ部隊の仲間によって一人が殺されてしまう。
次は自分かもしれないと感じた部隊の一人マー・トンは部隊から逃げ出すが、部隊はマー・トンを追い掛ける事となる。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて見た映画。

血滴子というぶっ飛んだ設定の武器が中心の話なのでトンデモな映画かと思いきや、血滴子はトンデモではあるものの話自体は血滴子が作られる理由や、それを扱う部隊、その中で疑心暗鬼になって来る数人から内輪揉めになって行き、逃げ出した主人公の逃避行を結構じっくりと描いていて、物語としてはしっかりとした見れる映画だったのが意外だった。

この映画のそもそもの発想や企画は血滴子を思い付いた所からなんだろうけれど、でもこの血滴子って見ていても直ぐにこれは必要無いと思ってしまう位無茶な物。
結構重そうな大型金属帽子の様な物を遠くから投げ、それを対象相手の頭に上手くすっぽりと被せ、血滴子の中から下に枠が下りて、その枠から刃が出て首を刈っ切るんだけれど、どう考えてもそんなに上手く頭に被せられないだろう武器で、これなら弓矢とか吹き矢の方が手軽だし命中率も良いだろうし、携帯性や隠匿性も絶対良い。
血滴子は暗殺の為の武器なのに皆大きめの風呂敷に入れて持ち歩いているので直ぐに誰が殺したかも分かりそうなモノ。

まあ、血滴子をそういう物として受け入れて見たら後は結構真面目な話で、初めは皇帝に見初められて悪者を成敗するんだと思っていた若者達が希望に満ちて仲間と共に修行に励んでいたものの、いざ実際に相手を殺してしまうと相手は忠臣なのに皇帝は何をしているのだろう?と疑問を持ち始め、更には人殺しはしたくないと情緒不安定になった仲間が他の仲間に殺されてしまって自分達の立場を理解し、そこから逃げ出そうとする主人公の行動も分かるモノだし、更には主人公が逃亡中に出会った女性と子供を儲けて農民として生きて行こうとすると追手がやって来てかつての仲間と戦わなくてはならなくなるという哀しい逃亡劇になって行き、これがしっかりしているので見れる内容。
一方で、確かにこの時代の香港映画だから仕方ないのかもしれないけれど各人物の心理描写が少ないので何を思っているのかがいまいち分かり難く、そこがもっと描かれていると大分おもしろい映画になったんじゃないかなと思う。

ただ、よくよく考えると主人公は部隊の仲間の内、仲の良かった二人以外は皆殺しにしているので、人殺しは嫌だで逃げ出したのに仲間を殺しまくってはいて、ここら辺の対比や想いがほとんど描かれていないのも分かり難い感じにはなっていた。

カンフー映画として見ると、血滴子が見た目も使い方も殺し方も強いので武器の無いカンフー場面になるとその対比で弱く感じられてしまい、しかも何だか全体的にカンフーがもっさりとした感じで温くておもしろくはなく感じてしまった。
血滴子を投げ合って戦った後にカンフーだとそりゃあ尻すぼみな感じにはなってしまう。

この映画、血滴子という強烈な存在で目を引くけれど、話自体は真面目な疑心暗鬼からの内輪揉めによる逃亡劇を描いていて、この時代の活劇を主とした香港映画としたら物語としてはおもしろいと思う映画でした。
香港では当時、この血滴子がやっぱり話題になった様で、この続編やこの映画を製作したショウ・ブラザーズではない他会社が血滴子で映画を作り、あのジミー・ウォングも「片腕ドラゴン」の続編として「片腕カンフー対空とぶギロチン」を作っており、その続編や関連作を見てみたいと思ったのだけれどAmazon プライムビデオではないみたいなのでガッカリ。

☆☆☆★★