新・少林寺三十六房
2026年08月28日 金曜日ラウ・カーリョン監督、シャオ・ホウ主演の1980年の香港映画「新・少林寺三十六房(少林搭棚大師 Return to the 36th Chamber)」。
幼い頃から武術を学び、自分の力に自惚れて周りと騒ぎばかり起こしているフォン・サイヨは、たまたま出会ったサンダ和尚を逆恨みし、サンダ和尚を匿っていると思い込んで武官達の下へ乗り込んで騒ぎを起こしてしまう。
このままではサイヨの身や家に危険が及ぶと思ったサイヨの母親はサイヨを兄弟と共に少林寺のサンダ和尚に預け、匿ってもらう事にした。
少林寺の三十六房で修行する事となったサイヨだったが、修行を真面目に取り組まず寺の外へと抜け出して提督府の祭りを見に行き、少林寺を脅威と考えて対処したい提督に利用されて大騒動となる。
何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、リュー・チャーフィーの映画を見たので、一作目の「少林寺三十六房」。二作目の「続・少林寺三十六房」と続けて見た。
何時の時代でもの勝手な邦題で三部作の様になってはいるけれど、二作目もリュー・チャーフィーは一作目の主人公サンダ和尚は演じていなかったし、この映画も原題からして別に続編でもなく、しかもリュー・チャーフィーが主役でもない映画で、あくまでリュー・チャーフィーがサンダ和尚を演じていて少林寺の三十六房が出て来るというだけの関係性。
まあ、そこはいいとしてもこの映画は主役が全く良くないし、脚本も適当でつまらなかった。
主人公は既に拳法を学んで強いという設定で、それに慢心して誰に対しても何事に対しても常に挑発的、攻撃的で突っかかって行き、それによって揉め事を起こし、しかもそれを全く反省せずに更に揉め事を起こしているばかりなので、見ていても、まあうざい。
こういう主人公で少林寺で修行となれば、出来ない事が出て来て挫折したり、悩んだり、何かを感じて成長する話になるかと思いきやそういう事は全くなく、主人公が修行をさぼってサンダ和尚に怒られてサンダ和尚と僧達に打ち負かされるけれど主人公は特に何も思わないし、変化も無いという事を繰り返すだけで、主人公は変わらずさぼるし、騒ぎを起こし続けるだけ。
これを見て何が楽しいんだ?という展開で、こんな周りに迷惑をかけ続けるだけの主人公で最後はどうするんだ?と思ったら、ズルしてサンダ和尚に怒られてお終い。
こういう主人公でのコメディなんだろうが、主人公は周りの人々に迷惑かけようが、近い人々が傷付こうが最後まで反省する事も成長する事も無いままって、これの何がおもしろいんだろうか?
主人公はどうしようもないのだけれど、主人公を演じているシャオ・ホウは体はムキムキで引き締まっているし、体の動きは機敏で動きだけなら非常に良い。
ただ、こんな主人公なのでクンフー場面でも主人公に身が入って行かずに流し見になってしまうので勿体無かった。
一方のリュー・チャーフィーは、一作目のその後のサンダ和尚の様な感じで、眼力鋭く、全てを分かった感じの佇まいは非常に良いのだけれど完全に脇役なので出番も少なく、拳法を見せる場面も少なくてリュー・チャーフィーを見るには物足りない。
でも、最後の方で短めの三節棍の様な武器を使っており、ここら辺は一作目を抑えて来ている感じがあった。
三十六房は相変わらず無茶な修行をしてはいたけれど、両脇の壁を登るとか、水の中の丸太を持ち上げるとか、余り突飛でもなくなり、一作目がやり過ぎではっちゃけていただけに回を増す毎に尻すぼみで普通の修行になってしまう感じは否めなかった。
話は、主人公が自分勝手に考えて、身勝手に行動して行って周りが迷惑を被るというだけなのでおもしろくはないし、広東会館があれだけ狙われて揉めたのに母親のあの対応だけで済んで終わったの?とか、最後も提督とあれだけ揉めて戦いにまでなったら少林寺もそうだし、主人公の家に何らかの罰があったり処刑されたりするだろうに特に何もなく終わるし、初めはあれだけ主人公と共に見せていた主人公の兄弟達も少林寺に入るとぱったりと出番が無くなって、そう言えばいたなぁ…となってしまう人物になり、脚本がその場その場で書きなぐったかの様な適当さで見ていてもどうでもよくなってしまった。
この映画、リュー・チャーフィーが「少林寺三十六房」以来サンダ和尚を演じているからシリーズ作みたいにはなっているけれど、リュー・チャーフィーは主役でもないし、そもそもリュー・チャーフィーの登場自体は少なく、主人公は見ていてもいらつくだけの自分勝手な馬鹿が何も学ばないので、シリーズではないけれど三作の中では一番つまらなかった映画でした。