バトルランナー

2026年06月24日 水曜日

ポール・マイケル・グレイザー監督、アーノルド・シュワルツェネッガー主演の1987年のアメリカ映画「バトルランナー(The Running Man)」

2017年。政府による管理社会となったアメリカ。
警察官のベン・リチャーズは食料を求める武器も持っていない市民達の射殺命令を拒否して強制労働所へ収容されてしまうが仲間達と共に強制労働所で暴動を起こして脱走した。
ベン・リチャーズは弟のアパートへと向かうと弟は引っ越しており、そこにはテレビ局ICSの局員アンバー・メンデスが住んでおり、彼女を使って国外逃亡しようとするが捕まってしまう。
ICSで放送されている人気テレビ番組「ザ・ランニング・マン」の司会者デーモン・キリアンは視聴率が伸び悩んでいる事を危惧していたが、ベン・リチャーズの脱走の報道を見てベン・リチャーズを「ザ・ランニング・マン」の新たなランナーにしようとする。
ベン・リチャーズは脱走に協力した仲間と、更にはICSのやり方に疑問を持ってICSを調べていた所を見つかってしまったアンバー・メンデスと共に「ザ・ランニング・マン」に強制的にランナーとして出演されられる事となり、武器を持ってランナーを殺しに襲って来るストーカーから逃げ、戦う事となってしまった。

YouTube公式の映画チャンネルを見てみたら、何時からか「バトルランナー」が配信されており、昔は週末の夜にテレビの地上波で何度も放送されていて見ていたはずと思い、その懐かしさで改めて見てみたら、映画自体は1980年代のB級感が凄い映画でそれなりではあるんだけれど、扱っている内容が今見ると色々と考えさせられてしまって、何だか勝手に深い映画に感じてしまった。

映画自体は、まあ1980年代の雑多なSFアクション映画。
時代設定は映画公開時の三十年後の2017年なのにSFとしては製作費が少なかったからなのか未来感を出す事を諦めていて、人々の髪形や服装が1980年代そのままで未来感は全然無い。
これは今見ているからそう思うのか、この当時だとまだ未来感はあったのか?がよく分からないし、2017年以前にわたしが見た時はどう思っていたのかは思い出せないので、このSF感はどうなのだろう?

映画の乗りも細かい事はいいからアーノルド・シュワルツェネッガーが次々と襲って来る敵を倒して行くだけではあるんだけれど、ここら辺の潔さはB級としてはおもしろかった。
アーノルド・シュワルツェネッガー側は皆武器を何も持たないのに、ストーカーはそれぞれが独特な武器を持ち、各ストーカー自体も人物が濃くて各人物は良く立っている。
この各敵が独自の武器を持って一人一人襲って来るとか、ちょっと「ロックマン」、アメリカだから「Mega Man」っぽさがあって、まるでビデオゲームの実写化の様でこの乗りは楽しかった。

一方で、テレビが非常に力を持ち、全ての娯楽の頂点で、かつ政府によって仕立てられた犯罪者を使って殺人ゲームを番組として見せるという、とても皮肉的な内容を扱ってはいるのだけれど、人気俳優アーノルド・シュワルツェネッガーのアクション映画と言う部分に引っ張られているので、皮肉的でも散漫になっている感じがして、もっとおもしろくなりそうなのに何だかいまいち。
これは映画の監督経験が余り無かったポール・マイケル・グレイザーの力不足と役不足なのかなぁ?と思うのは、撮影開始後に急にポール・マイケル・グレイザーに交代になっていて練りが足りなかっただろうし、アーノルド・シュワルツェネッガーがポール・マイケル・グレイザーの手腕を批判していたりしているから。
それこそ、「トータル・リコール」の監督だった変な悪趣味さを出すポール・バーホーベンとか、映画内の話で1997年にロサンゼルスで大地震があったと言っていたので、ジョン・カーペンターとかが監督したら、この設定や方向性とかが合っている感じがして、もっとおもしろくなっていた様な気がしてしまった。

そのテレビや番組や観客の描き方を見ていたら今でも通ずる様な話だったので色々と考えてしまった。
この映画では、多分当時のテレビ番組の力の大きさや影響力の危なさを皮肉的な笑いの方向も入れつつ描いているのだろうけれど、これが今ではインターネットやSNSになっていて、そこに重ね合わせて見てしまって余り楽しく笑える感じでもなかった。
この映画や古いSFでの未来の社会は権力が極端に集中したディストピアとして描く事が多かったし、その方が言いたい事が分かりやすくなるからなんだろう設定ではあるけれど、実際の現実は何でも分散しつつも集中する分かり難いディストピアになってしまっていて、でもやっている事は大して変わっていなくて、テレビは今でも犯罪者で視聴率を稼ごうとしているし、インターネットでは更に過激に悪者だと思った相手を事実でなくとも、捏造でも構わないから攻撃しまくる観覧の観客がストーカーとして参加する「ザ・ランニング・マン」を観客個人個人が放送している様な世界になっていると思ってしまうとこの映画を見ていて段々とげっそりしてしまった。
しかも、映画でもそれまで殺せ!と熱狂していた観客が急に掌を返してアーノルド・シュワルツェネッガーを応援する様な事も現実にも多々あるし、映画では映像が偽造されたモノでそれが暴かれてはいて、その後の観客や視聴者達がどうおもったのかははっきりはさせていなかったので分からないけれど、現実では捏造偽造で嘘でしたと分かっても、いや違う、間違ってはいないで一度持った信仰を絶対捨てない人もいるしで、このぐっちょりとした現実のディストピア感の方が映画よりも怖くなってしまって映画の楽しさよりも怖さや不安の方が大きくなってしまった。

あと、判断が付かなかったのが終わり方。
アーノルド・シュワルツェネッガーとヒロインの急なキス場面になり、そこに如何にも80’sなロックバラード、パワーバラードがかかって終わって行き、これって今見ると完全に笑かしにかかって来ている様にしか思えない演出なんだけれど、この映画の製作側はやっぱり主人公とヒロインのキスは必要で、そこに良い音楽かけて最高の終わりだ!と本気で良いと思って作っていたのだろうか?
これは、この映画の公開当時に見た感想でないと分からないか。

それと判断が付かなかったのが、途中に出て来た小ネタ台詞のスポック。
地下組織でジョークで若い相手にスポックと言ったら「スポックって誰?」というやり取りがあったのだけれど、これってこの世界では「宇宙大作戦」の開けて包括的ではあった世界観が良くないから情報規制されてしまったのか、この映画の時代設定が2017年なので、もうそんな古いテレビドラマの登場人物なんて若者は知らないという事だったのかしらん。
この映画の公開当時ではまだ「宇宙大作戦」後のスタートレックの映画が公開されていた時期だったのに、この当時の若者はこの映画みたいに「スポックって誰?」という感じだったのだろうか?
でも、多分アメリカなら今でもスポックは通じるんじゃあなかろうか?

そう言えば、主人公を偽造映像で殺した様にしていたジェシー・ベンチュラ演じるストーカーのキャプテン・フリーダムって、結局本物の主人公とは戦わず、その後も登場せずだったけれど、それまで何度もCMでも登場させていたのに何も無しって、この役や展開も一体何だったのだろう?

この映画、アーノルド・シュワルツェネッガーが出演していないと何ともおもしろくはないB級SFアクション映画で、その80年代感を今楽しむには良いのかもしれないんだけれど、わたしには扱っている内容が現在の現実をディストピアとして強く認識してしまったので、見終わると何だか滅入ってしまった楽しくはない映画になってしまいました。

☆☆☆★★

嵐を呼ぶドラゴン

2026年06月19日 金曜日

チャン・チェ監督・脚本、チェン・カンタイアレクサンダー・フー・シェン出演の1974年の香港映画「嵐を呼ぶドラゴン(方世玉與洪熙官 Heroes Two)」

清の将軍によって少林寺が襲撃されて焼き討ちにされてしまう。
少林寺から逃げ延びる事が出来たホン・シークァン(洪熙官)は清の追手と戦いながら生き残った仲間を集めようとしていた。
少林寺の同門のファン・シーユイ(方世玉)はホン・シークァンに倒された清の追手に騙されてホン・シークァンを強盗だと思い、ホン・シークァンと戦って清に引き渡してしまう。
ファン・シーユイは少林寺の仲間の下へ行くと自分が兄弟子を清に引き渡してしまった事を知って後悔し、捕まったホン・シークァンを助け出そうとする。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、その中で知ったチャン・チェの映画を続けて見てみた。

多分ジェット・リーの映画で知って名前を憶えていた有名な拳法の達人の方世玉と洪熙官が登場しており、どちらもそれぞれが主人公級の二人が競演するという事が目玉であったろう映画なんだろうけれど、話は大しておもしろくはなく、カンフーは戦いの場面が多くてめりはりが無くなってしまっているし、カンフー自体は悪くはないけれど繰り返しで飽きてしまうしで、ずっといまいち。

始まりの清軍による少林寺の焼き討ちから余り予算が無かったのか少人数による小規模な焼き討ちなのでこじんまりとしている。
その後も十人程度が行動している少林寺側でも目立つのは主役の方世玉と洪熙官と少林寺の一時的な指導者の人位で、清側も十人程度の軍勢なので常にこじんまりとした小競り合いにしか見えず、少林寺崩壊という大事には見えない。

方世玉と洪熙官が初めは対立して、その後和解して共に戦うという構成にしたいのは分かるけれど、初めの時点で何故同じ少林寺の方世玉と洪熙官の面識が全く無いのが疑問にしかならないし、どちらも少林拳の使い手で達人級に強いなら戦えば直ぐに気付きそうなモノなのに全然気づかないままというのは結構無理がある様に思えて乗って行けなかった。

その後、自分の間違いを知った方世玉が洪熙官を助け出そうとするけれど、ここの話もいまいち。
相手は強いので一人ずつ倒して行こうとするけれど、敵を殺さないので当然気付かれてしまい助けられないのは何を目的としているのだろう?
結果こっそりと助け出さなくてはいけなくなり、その方法が隠れ家から洪熙官が捕まっている家の地下まで穴を掘るので笑ってしまった。
八日であれだけ掘り進められるのか?という疑問もあるし、最後は方世玉は石の壁が崩せないと言っていたけれど将軍側の方からだと結構短時間で石の壁を壊せていたのは何?だし。

最後の少林寺側と将軍側の戦いも一番盛り上がるはずなのに、そこまでで結構多めに戦い場面があるので終始戦っていた様な印象になってしまい、いよいよの最終決戦なのに盛り上がらず。
しかも多人数での戦いなのに見た目が地味。
そして、これまでどういう人物かと描かれず台詞もほとんどなかった少林寺の人々が戦いで殺されると画面が急に真っ赤になる演出は何だこりゃ?
その人を描かなかった分、色で惨劇なんだ!と表現するしかなかったのからしらん?
それに、将軍側もこれまで全く登場しなかったチベット僧が突然登場して戦うけれど、初登場なので強いのか悪い奴なのかもよく分からないし、中国拳法とチベット拳法の違いも見ていてよく分からないので、何故急にここで?と思ってしまった。

役者のカンフーは決して下手という訳でもないけれど、特徴が出るのは最後の方世玉と洪熙官の鶴と虎の拳位で、ずっと同じ様な事を見せられていた気がしてしまい、戦う場面も多いので段々と飽きてはいた。

方世玉を演じていたアレクサンダー・フー・シェンはカンフーが上手い感じがしたし、見えの切り方とかも良かったし、見た目もカッコいい感じがするんだけれど、このアレクサンダー・フー・シェンって自動車事故で28歳で亡くなっていたのか。
このまま映画を続けていたら結構なスターになったと思う気がしたので非常に惜しい気がした。

気になったのが髪形。
清の時代なので辮髪なのに皆長い三つ編みはあるけれど誰も頭を剃っていない。
これは役者が他の役を演じられなくなるからの都合なんだろうけれども、三つ編みを側頭部にグルッと巻いたカツラを被っているだけの謎の髪形なので違和感しかなかった。
それに少林寺の人達も僧侶なので丸坊主ではないの?と思うのだけれど、同じく謎髪形なのは違和感。

あと、名前も。
方世玉の読みは知らなかったけれど、洪熙官はずっと「ハン・カーロ」だと思っていたら字幕が「ホン・シークァン」。
どうやら「ハン・カーロ」は中国語の普通話読みで、広東語では「ホン・ヘイクン」らしい。
だとすると「ホン・シークァン」は北京語読みという事なんだろうか。
ここら辺の字幕の表記って、中国映画と香港映画で元々発音が違い、しかも漢字表記の方が馴染みがある歴史上の人物でも映画内での発話では中国語なのでカタカナの中国語表記の方が映画の台詞としては分かりやすかったりするので日本でだと面倒臭い。

この映画、話は方世玉と洪熙官の対立は大しておもしろくはないし、方世玉が洪熙官を助けて悪者と対決という特に捻りの無い展開で終わっていまいち。
カンフーは悪くはないけど頻繁に戦う場面が出て来るので全体的にダラッと流れてしまい、盛り上がりに欠け続けてしまって全体的に余りおもしろくはない映画でした。

☆☆★★★

水滸伝

2026年06月17日 水曜日

チャン・チェ監督、デビッド・チャン(姜大衛)主演の1972年の香港映画「水滸伝(水滸傳 The Water Margin)」

梁山泊の首領である晁蓋が敵対する勢力の武術師範の史文恭に殺されてしまった。
梁山泊の人々は晁蓋の仇を討とうとするが武術で梁山泊にかなう者はいないと考えて史文恭と同じ師に武術を学んだ盧俊義を梁山泊に引き入れようとする。
盧俊義の下に梁山泊の使者を送るが盧俊義の配下の者が裏切って盧俊義を役所に通報し盧俊義は逮捕されてしまう。
盧俊義の腹心の燕青は盧俊義を助け出そうとし、梁山泊の人々も盧俊義を助け出そうと行動する。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、その中で知ったチャン・チェの映画を「英雄十三傑」に続けて見てみた。

わたしは「水滸伝」を全然知らないので、この映画では設定や話がさっぱり分からない事が多く、そこはそういうモノかと思って見てはいたけれど、映画自体がよく分からない事が多くて全然おもしろくはなかった。

映画の始まりからやたらと登場人物達が登場して、この梁山泊の面々の紹介場面ではこの人が誰なのかを説明する為に漢字字幕で名前が出てはいるけれど、この字が中国漢字の行書体の様な字なので分かる字がありつつも読めない字もあって文字を全部認識する前に消えてしまうし、アルファベットでも字幕が出るけれど、こちらは中国発音のアルファベートなので誰一人として名前が分からないまま。
分かった所で「水滸伝」を知らないので誰一人として分かりはしないけれど、これだけの人物が出て来ても名前がよく分からずに置いて行かれるので初めから乗って行けず。

見ていて後から気付いたのは、何故か丹波哲郎も出演しているのだけれど、その丹波哲郎が登場した時に「Tetsuro Tanba as~」と字幕が出て来て、それで最初のやたらと続く人物紹介はこの映画がオールスター的な映画だから、その役者を一人一人見せる必要があり、人物名に加えて役者の名前を出していたのかという事。

わざわざこれだけの人物を紹介するし、「水滸伝」なのでこの梁山泊の面々が活躍するモノだと思ったら、この梁山泊の面々は最後の方にずらっと登場する位で初め以降は梁山泊ではない盧俊義と燕青の話がほとんどになり、何の話なの?と全く乗って行けず。
「水滸伝」を知らないのでこの盧俊義と燕青の話は有名で、だからこの映画になったのだったらまだ分かるけれど、この話が有名で映画にする位なのか分からないし、そもそも「水滸伝」と銘打ったオールスター映画で梁山泊の人々に多分有名な役者を配役しておきながら、その多分有名な俳優が全然活躍しない、登場すら少ないのがよく分からない。
しかも、燕青役はこの映画以前のチャン・チェ監督映画でも主役だったので分かるデビッド・チャンが主演扱いだと思うけれどそれ程登場は多くないし、中盤以降はそれ程目立たないし、この映画で一番重要人物の盧俊義役が丹波哲郎で、敵方の一番の大物の史文恭役が黒沢年男なのもよく分からない。
何で香港オールスター映画でほぼ主役と敵の親玉が日本人俳優なんだろうか?
これって、オールスター映画になった事によって誰々がこの役で目立つとこの人が文句言うとか、役者の格としてこれだけ出さないといけないとかの関係性が面倒臭い事になってしまったので、それだったら主役はそういう関係性が無い外部の人間にしてしまえ!になったのかしらん。
それでも何で丹波哲郎と黒沢年男が出ているのかがよく分からず。
丹波哲郎はフリーランスで海外映画にも出演していたというのもあるのだろうけれど、黒沢年男って東宝所属ではなかったのからしらん。
しかも、丹波哲郎と黒沢年男が出ているのに日本では劇場公開が無かったそうで、それだと日本人俳優を主役級にしている目的が分からないし、日本の映画会社との関係や交渉もどうなっていたのだろう?
ここら辺の事情をインターネットで調べてみたけれど詳しい情報が全然出て来ず、さっぱり分からなかった。

話の方は、この人はどういう背景を持った人でどういう状況に置かれているのかよく分からない人々で話が進んで行くので付いて行けず、まだ展開がおもしろければいいのだけれど、それも盧俊義が捕まって誰かの手助けで逃げ出すの繰り返しでつまらない。
結局四回位この繰り返しが続き、何だか分からない人が何をしているのかよく分からない梁山泊に入りました…なので全然おもしろくはない。

映像は、初めは海の側に広大な砦が映し出されてショウ・ブラザーズの力を見せつける様な壮大さがあるものの、その場所は最初以外は登場せずにセット内の屋敷内の映像が多く、開けた外でも山の位置だったり道の形がつい最近見た「英雄十三傑」で長安の砦があった場所だと思わしき所で撮影していて、ショウ・ブラザーズの敷地なんだろうなぁ…と思うだけで大した事もない。

おもしろかったのが音楽で、何故か当時の現代風だと思われるオルガンやエレキギター等での音楽になっていて、時代物なのに何でこんな音楽なんだろう?とちぐはぐさでニヤニヤしてしまった。
オルガンがピロピロなって、映像の展開に合わせて急に早くなったりゆっくりになったりするのでプログレッシブ・ロック風味もあり、まあ違和感。

この映画、梁山泊が何で、何を目指しているのかさえ映画内で説明が無いので、そもそも「水滸伝」を知っていないとさっぱり分からない事だらけで乗って行けないし、梁山泊の人物ではない人がほぼ主役で同じ様な展開を繰り返すだけの話でつまらないし、最後の対決場面でも香港オールスター映画なのに何故か丹波哲郎と黒沢年男の対決が一番の見所になっていて、香港オールスターは脇役で、それまで悪事が全然描かれなかった敵が梁山泊の面々に無残に血みどろに殺されて行くので梁山泊が酷い奴みたいな感じになってしまい話が全く盛り上がらずに終わってしまうので、一作の映画として見ると分からない事が多過ぎのままで置いてけ堀、かつ製作意図や構成もよく分からない映画でした。

☆★★★★

英雄十三傑

2026年06月09日 火曜日

チャン・チェ監督・脚本、デビッド・チャン(姜大衛)主演の1970年の香港映画「英雄十三傑(十三太保 The Heroic Ones)」。
倪匡の小説「十三太保」が原作。

唐末期。黄巣が反乱を起こして首都の長安を占領した。
唐は長安を取り返す為に沙陀族の軍閥であるリー・クーヨン(李克用)に反乱の平定を命じた。
リー・クーヨンには十三人の養子がおり、四弟リー・ツンシン(李存信)の提案によって長安での黄巣暗殺計画を決定し、十三弟のリー・ツンシャオ(李存孝)の指揮の下、九人が長安へと向かった。
九人による暗殺はツンシャオの命令をきかなかった四弟ツンシンと十二弟カン・チュンリ(康君利)の独断行動で失敗してしまった。
帰還した九人をリー・クーヨンは迎い入れ、敵陣をかき乱したツンシャオを褒め称える一方、四弟ツンシンと十二弟カン・チュンリを死罪にしようとするがツンシャオの助言で死罪を免れた。
リー・クーヨンの成功と出世を疎ましく思っていた総督のチュー・ウェン(朱温)はリー・クーヨンを倒す為に四弟ツンシンと十二弟カン・チュンリを利用しようと目論み、やがて十三兄弟の仲に亀裂が入り始める。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので幾つか古い香港映画を見ていて、その中でジミー・ウォングの映画を続けて見ていたのだけれど、ジミー・ウォングの映画で配信していたモノはもう全部見てしまったので、「大女侠」や「片腕必殺剣」等のジミー・ウォングの映画を監督していたチャン・チェの映画を見てみようと思い見たのがこの映画。

初めから時代や歴史の説明があるので史実を基にした映画だと分かるけれど、この辺りの歴史には詳しくないので、そうなのねで見てみたら歴史を知らずとも分かる内容で、大人数での剣劇はまあまあおもしろいものの話は構成がどうなの?なので見終わると結構いまいちだった。

始まりは主人公側を描き、主人公となるツンシャオがどういう人物なのかを見せるのだけれど、これがどうにも乗って行けない。
皆挑発的で、酒をガブガブ飲んでガハガハ笑って暴れている田舎のチンピラ感が物凄く、どちらかというとこの主役側が敵っぽい。
なので、本来なら主人公として見て行くはずの側に全然身が入らず、序盤でこれどうなの?と思ってしまった。

そこから長安に向けての移動や長安での戦いになり、十三人兄弟なのに何故か九人しか行かないという疑問もありつつも、九人対大人数戦のチャンチャンバラバラの剣劇は1970年の映画と思うと中々おもしろくはあった。

その中で四弟は暗殺作戦を提案したのに十三弟に取られたというのはあったものの、急に四弟と十二弟が勝手に行動したり、女性を襲ったりして仲違いが起こるのだけれど、それまでで四弟と十二弟の葛藤や想いがほとんど描かれないのでこれまた付いて行けず。
この中盤以降の兄弟の分裂話の方が断然おもしろかったので、もっと前段階で各人の気持ち等の描写が無いと入って行けないのにとてもなおざりなので色々唐突に感じたし、話が盛り上がらなかった。
四弟と十二弟がチュー総督側に付くようで付いておらず、結局はチュー総督がリー・クーヨンの命を狙う事になるし、四弟と十二弟の狙いは十三弟だけになるので、この四弟と十二弟の動きもいまいち盛り上がらないまま。

何と言っても、終盤でこれまでの主人公だった十三弟が四弟と十二弟の策略で馬に引かせて五体バラバラという「ひー…」となる最後が出て来て、そこからどうするのかと思いきや、今まで少ししか登場していなかった一番上の兄が、同じくほとんど顔すら見せていなかった他の兄弟達と共に四弟と十二弟への敵討ちに行き、そのまま終わって行くので主人公不在のままで結局何だか分からない話の終わってしまい、何だこりゃな感じが一杯。
企画や案を出してとにかく作り出したので後半での心情の説明の為の前段での描きが少ないのかなと思うし、観客に受ける為にとにかく剣劇を多くとか、それが何かになる訳でもない長安での十三弟と女性の関係を入れるとかになってしまったのかと思ってしまった。

こういう史実に基づいた映画となると、どうしても実際はどうだったのか?が気になる所で調べてみたら、まず十三人が兄弟と言うのは当時は有望な人間を養子(仮子)という形で向かい入れる関係があったそうで、初めは十三人も子供がいるの?この時代ならありそう…と思ったけれど途中で養子だと言う話も出て来ていて、やっぱりそういう事となのかと分かった。
ただ、十二弟の話でまだ名字をもらっていないと言っていたけれど、実際にはこの十二弟と十一弟は李克用の養子ではなかったそう。
また、三弟は李克用の実子で、生まれたのは十一弟の死亡後だったそう。
長安を攻めたのは流石に九人ではなく李克用の大軍ではあったそうで、チュー総督(朱温。後に朱全忠)が李克用と争ったのも史実で、まあここら辺までの話は大体実際と同じみたいだけれど、一番の驚きは史実での十三弟の李存孝のその後。
十三弟の李存孝に嫉妬した四弟の李存信が李存孝に吹き込んで、十三弟の李存孝が寝返って朱温に付いて李克用と戦い、負けて処刑されている。
これを知ったら、えっー!ってなるでしょ。
あれだけ李克用に可愛がられ、十三弟の李存孝も信頼して戦っていたのに何がどうなったの?
寧ろこの映画での四弟の行動が十三弟だったとは。
そう思うと何でこの映画ではこの展開になったのかよく分からないし、史実ではどうして十三弟の李存孝がそうなったのかも不思議。
ちなみに四弟の李存信は史実ではその後も李克用の下におり、朱全忠と戦って負けており、最後は病死だったそう。
李克用は朱全忠との決着がつかないままで病死し、李克用の実子である三弟の李存勗が継いで後唐の初代皇帝となったけれど悪政によって十三人兄弟の一番上の兄の李嗣源が軍閥によって担ぎ上げられて二代皇帝になっている。
結局史実の方がより兄弟間の骨肉の争いが強そう。
チュー総督こと朱温の方は朱全忠と名乗り、唐側に付いており、自分の息子を唐の皇帝にして禅譲させて後梁の初代皇帝となり、その後病気に倒れた所を実子に殺されており、後梁も後唐に滅ぼされている。
流石に映画では描き切れないけれど史実通りでも凄い愛憎巡る話。

この映画、剣劇はまだ試行錯誤の時代だからか一つ一つはそんなでもないけれど大人数対戦は結構おもしろかったものの、常に人物の描きの足りなさ、いまいちさが出ていて、結局誰が主人公なのか分からない所に着地してしまって、何だかなぁ…で終わって行ってしまう映画でした。

☆☆★★★

吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー

2026年06月05日 金曜日

ジミー・ウォング監督・脚本・主演の1970年の香港映画「吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー(龍虎鬥 The Chinese Boxer)」

柔道家のタオ・アルが国術を教える道場に道場破りとしてやって来るが師範に返り討ちにされてしまう。
タオ・アルは一か月後に日本の空手家を連れて戻って来て師範を殺して、ほとんどの弟子達も殺してしまった。
何とか生き残った弟子のレイ・ミンは復讐の為に町で賭博場を開いたタオ・アル一味の下へ乗り込んで行った。

何度目かの昔の香港映画に興味が湧いた時期が来たので、「大酔侠」を見て、その続編的「大女侠」を見て、「大女侠」にジミー・ウォングが出ていたので「続・片腕必殺剣」を見て、続けてのこの「吼えろ!ドラゴン 起て!ジャガー」を見てみた。

ジミー・ウォングは片腕必殺剣シリーズが当たったは良いけれど製作していた映画会社ショウ・ブラザーズに対して不満があったらしく、だったらと言う事で全部やってしまったのがこの映画らしい。
香港映画としてもそれまでの「片腕必殺剣」の様な剣劇の武侠映画が多かった中からこの映画でカンフー映画へと移行して行った変わり目の映画らしい。

そんな映画で、確かに所々見所があるにはあるけれど、やっぱりまだ試行錯誤の時代の映画という事もあってか、見終わると物足りなさが大きくあった。

序盤はカメラが急に寄ったり、カメラ前に物を配置しつつも奥に長い構図の画を取ったり、編集も短く繋いでいて、ジミー・ウォングって監督として結構良いのでは?と思わせる映像や編集で結構ワクワク感があった。
話も道場破りからどうなって行くのだろう?でおもしろそうな雰囲気はあったけれど、それ以降がどうにも微妙。
道場破りの話の時点から敵側視点の話が多くてジミー・ウォングは脇役で余り話に絡んで来ず、敵が道場乗っ取ってからも賭博場側の話が多くて、やっぱり主人公であるはずのジミー・ウォングの話が少ない。
復讐譚なので主人公の恨みつらみや、ここは我慢して…とか、倒せなかった相手を越える為に修行を繰り返すとかがあるのかと思いきや、主人公の悔しい思いの吐露は一場面位。
修行も五分十分位だけで終わり、それも足に重りを付けて走り、その重りを取ったら2m以上の走高跳の棒を垂直跳びで軽々と超えられる様になって急だし、熱した砂鉄に手を叩き付けて突っ込んでいたけれど、これがどういった修行で、結果それがどうなったのかがよく分からないので手間を省いてしまった感が凄い。
結局修行後に手に付けていた手袋は何の為で、手がどうなって、その手が強いのか?もよく分からないまま。
この短い修行の後は直ぐに大勢相手の戦いになるので、復讐譚なのに復讐までのあっさりとした展開はどうなの?

ただ、その後の戦いは結構おもしろく、賭博場での大人数対戦は主人公の急な強さの発揮は感じるものの、初期のカンフー映画としては良く出来たアクション場面で楽しさがあった。
その賭博場を出ると突然外が雪景色になっており、その雪降る草原で謎に日本の剣士と戦う場面も草に隠れつつ襲撃するやり合いや、映像的にも結構おもしろかった。
まるで西部劇の銃の抜き合いの様にジミー・ウォングの短剣対敵の手裏剣の投げ合い対決もあって笑ってしまったし。
敵の剣をかわしながら剣を取って戦う姿は多分ジミー・ウォングの計らいで片腕必殺剣の主人公を思い出させる様になっていたし、ジミー・ウォングの映画を続けて見て来たのでジミー・ウォングはやっぱり剣劇の方が良いなあと思ったり。

ジミー・ウォングは剣劇の方が良いと思ってしまうのは、この映画でのカンフーアクションが良くないから。
どうしても実際に中国武術をしていた人が役者になったこれ以降のカンフー映画と比べてしまうのだけれど、ジミー・ウォングはあくまで映画俳優のカンフーなので切れはよくないし、足は全然上がっていないし、カンフー映画としては余りおもしろくはなかった。
ジミー・ウォングの余りよくないカンフーを誤魔化す為の賭博場での大人数対戦や雪降る草原での剣劇なのかな?と思ったりしたけれど、それだとジミー・ウォングは監督しての方が才能があるのか。

初めて目にした国術と言う拳法対柔道や空手の異種格闘技戦も設定としてはおもしろいのだけれど、国術がどういった拳法なのかよく分からないし、柔道は一応投げ技を見せてはいるけれど、これって柔道なの?と思うよく分からない拳法だし、空手もこれ空手なの?と思う柔道も空手も中国拳法と変わりが分からず、異種格闘技感は余り感じなかった。

ジミー・ウォングのカンフーがあんまりよくはないので本来なら一番盛り上がるはずの最後の一対一の対決が盛り上がらず、それまで敵側の首領感一杯だった柔道家も隠れていた所から出て来て短剣を投げ返されて死亡というあっさり過ぎる最後だったし、話もジミー・ウォングの想いも特に見せず急に終わるしで見終わると物凄く肩透かし感を感じてしまった。

この映画、ジミー・ウォングの監督の力や才能を感じる所が多々あるけれど、話となるとジミー・ウォングが監督で忙しかったからなのか敵側の分量が多くて主人公が少ないので主人公の想いが出る前に戦いだけになってしまって復讐の為の戦いはずなのに復讐を盛り上げる事が無いので戦いが盛り上がらず、そのまま一番最後の戦いも大して盛り上がらないまま終わってしまうので見終わると何だかなぁ…な感じになってしまう映画でした。

☆☆★★★