グラン・トリノ

2013年01月23日 水曜日

クリント・イーストウッド製作・監督・主演の2008年の映画「グラン・トリノGran Torino)」。

妻を亡くし、元から頑固で偏屈なおじいちゃん、クリント・イーストウッドが、隣の家のアジア系の少年を助けた事により、自分も周りとの関係も変わり始める。

クリント・イーストウッドは1980年代位までは渋いアウトロー。1990年代は年に抗いながら頑張るおじいちゃん。21世紀は自分は老いにぶつかり、自分ではどうにも出来ない現実とどう向き合って生きて行くかの題材が多いけれど、これはまさに2000年代のそれの代表作。そしてこれまでの映画人のクリント・イーストウッド自身の歳を取っての結論でもある様な映画。
どうしようない老いと妻の死は変えられないが、自分の偏見から来る差別と付き合い難い性格は変えられるという、普遍的だけれど非常に根本的な問題との向き合い方を描いている。これ、10年以上前だったら、単に頑固な白人のおじいちゃんと無軌道な若者、もしくは黒人のいじめられている少年位の主役二人だったろうけれど、これではクリント・イーストウッドは相当口汚いし、物凄い人種差別的で、それに対するのはモン族の少年。全く繋がりの無い二人が繋がり、それが個人だけでなく、大きな時代の移り変わりと受け入れも描いている。
グラン・トリノという白人アメリカ人の象徴でもあった物が、自分の血縁の者には自分の意思が伝わらないので渡す訳ではなく、移民の若く前途ある少年に受け渡され、そして思いを受け取った少年が走り去って行く最後の様に、大きな時代の流れを受け入れ、前向きに描いているのはクリント・イーストウッドの大きな思い。それだけではなく、この映画全編に渡り、実際に共和党員であり保守の人だけれども、リバタリアンでもあるクリント・イーストウッドの思いが色濃く出ている。主人公は暴力ではなく自己犠牲による解決をし、「ダーティハリー」が娯楽を目指した役上のクリント・イーストウッドだったのに対して、この映画はクリント・イーストウッドの本心的思いの役だからこの行動。それに、主人公はガッチガチ保守な頑固ジジイで、描写もまさにそれ。下品で、無神経で、差別的だけれど、クリント・イーストウッド自身の優しさと、そんな身内からさえも疎まれ、比喩的にも何処にも居場所が無い人に対する優しさでもあり、クリント・イーストウッド自信への慰めでもある優しさを持って描いているので、単に嫌な奴ではなく、過去の娯楽映画で演じて来た役以上の、現代的な英雄譚としてのカタルシスを見せる。
しかし一方で、この映画、真面目な映画なんだけれど十分コメディ。クリント・イーストウッドの頑固ジジイが時々見せる戸惑いや怒りの表情や、古いアメリカのガッチガチな保守的男が絶対的正義な態度が笑いになり、下品で危ない人ばかりなのに、非常にほんわかしているという不思議な雰囲気。
その分なのか、殴ったり怒ったりの激しい場面は結構もっちゃりしている。クリント・イーストウッドが年を取って動きが緩慢というのもあるけれど、演出がいまいち機敏じゃない。

おもしろいのは外国の宗教儀式。クリント・イーストウッドの方の妻の葬式も、隣の家の子供の誕生も、日本から見れば異質な宗教儀式。アメリカが異質な者同士の集合体だと良く分かる所なんだけれど、アメリカ人以外からすると、どちらもいまいち分からない文化になってしまうので主人公のおじいちゃん目線にならず、何が一般的なのかがピンと来ず、アメリカ人なら「いるいる、こんなじいさん…。」になる所が、わたしにとっては「この映画ではクリント・イーストウッド、こんな感じで来たか…。」とか「クリント・イーストウッド本人の思いはそうなのか…。」が先行してしまい、物語よりも、主張映画の意味合いの方が強くなってしまっていた。しかし、だからこその強い思いの映画でもある。

どこの国でも若いチンピラはいるけれど、アメリカの場合は人種差別に銃も関わって来るから更に救いが無い頭の悪さが目立つ。何よりチンピラが首元に大きく「家庭」という刺青入れているのが、頭の悪さを引き立てる。そして、救いが無い奴は救う必要はなく、叩き落とせと言うのも強さの主張でもある。

姉役のアーニー・ハーって誰かに似ているなぁ…と思いながら見ていたけれど、柳原可奈子に似てるのか。

ずっとこの題名「グラン・トリノ」が、「トリノ・グランプリ?グラン・トリノ・ホテル?」と疑問だったけれど、フォードの自動車の名称なのかと分かり、それが大きな意味を持っているので成程。

構成は非常に王道な異文化交流の話なので、展開自体は飛び抜ける訳でもないけれど、クリント・イーストウッドの保守的な考えの上にある優しさと、そこから来る強さが、声高にでもないのに全面に押し出され、マカロニ・ウェスタンや「ダーティーハリー」で有名になったクリント・イーストウッドが老年に至り、これまでの自分自身に対する返答でもある辿り着いた映画として、非常に重厚で濃く、映画としての物語を見た以上にクリント・イーストウッド自身を見た映画でもあった。

☆☆☆☆★

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