ダイアリー・オブ・ザ・デッド

2017年10月14日 土曜日

ジョージ・A・ロメロ監督・脚本、ミシェル・モーガン主演の2008年のアメリカ映画「ダイアリー・オブ・ザ・デッド(Diary of the Dead)」。

ピッツバーグ大学映画学科の学生達が山奥で卒業制作のホラー映画を撮っていると、ラジオから死体が蘇り人々を襲い始めたというニュースを聞く。
学生達は撮影を止めて家へと帰ろうとするが、道中で死んでいるのに歩く人間を目撃する。
卒業映画の監督兼撮影のジェイソンはカメラを止めず、全てを記録しようとする。

わたしはジョージ・A・ロメロの映画は「ゾンビ」を見て、ホラーの中に終末・崩壊・生き残り・社会批判・人間性を練り込んで非常に感心したし、「ランド・オブ・ザ・デッド」も見て、確かおもしろかったと思ったはず。
現在では映画だけでなく、漫画やゲーム等で粗製濫造されまくっているホラーのアイコンであるゾンビを生み出したジョージ・A・ロメロの「~・オブ・ザ・デッド」なので当然期待はして見たけれど、この「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」は酷い出来。
学生がカメラを回し続けるモキュメンタリー風になっているけれど、まるでジョージ・A・ロメロのフォロワーがジョージ・A・ロメロの真似して作った安っぽいゾンビ映画の様。
安っぽく盛り上がらない展開。怖くもないゾンビ。説教臭過ぎる社会批判等々、これがあのジョージ・A・ロメロの映画?と思える位冴えないダラダラした映画。

この映画の一番の問題点は、ゾンビのホラー映画として全く怖く無いという事。
始めの事件現場の時点で、蘇った人間が人を襲っても緊迫感は無いし、ジリジリと寄って来ても恐怖感が全く無く、この始めで「あれ?つまんないんじゃないの?」と思ってしまう。
その後もゾンビはゆっくりと迫って来るのに生きている人間はゾンビの存在に全く気付かず、気付いた時には頸動脈を噛み千切られるという間抜けが何度も繰り返される。狭い場所に大量のゾンビが押し寄せるなら説得力もあるのに一体のゾンビに抵抗せずやられるって間抜けにしか見えない。
人気の無い山中の農家に何故かワラワラとゾンビが押し寄せる場面は、もうお笑いでしかないし。
まだ学生で、多分銃も撃った事無い様な人間があの小さな銃で動くゾンビの額の真ん中を打ち抜くという、皆が銃の名手という馬鹿げた超人設定も怖さを削ぐし、登場人物達は死んで行くものの、ゾンビを簡単に倒してしまうので今までにあった「ゾンビがワラワラ湧いて来て、対処しようにもどうにも出来ずにゾンビに襲われてしまう」という、ゆっくりなのに無限湧きの恐怖が全く無い。
ゾンビの恐怖が無い上に、この「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」以前に他のゾンビモノやバイオハザードモノで散々描かれた「人間が一番怖い」という説教もこの映画では取って付けた様な安っぽさ。

映画の構成としても演出としても微妙なのは中途半端な主観映像。
1999年の映画「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」以降持てはやされた手持ちカメラのモキュメンタリーを、多分2008年当時でも今更感一杯だったろうに堂々としてしまっているけれど、映像は完全ドキュメンタリーではなく途中途中で編集が入り、音楽やナレーションを付けているので記録映像になりきれておらず、映画としても安っぽいので非常に中途半端になってしまっている。
映画の中では「編集された映像」が批判の題材にもなっていて、この映画内映像では「事実をそのまま記録する」と言っている割に、どう見てもゾンビとは関係の無い現実の過去のニュース映像を挟み込んでいる時点で、映画内の人物も見る人の気分を上げる効果を狙って嘘を挟み込んでいる事になってしまっているし、ゾンビが出て来そうな所で不気味な音楽付けて安っぽいホラー映画と変わらない仕上げにしているので、もう何処向いているのか訳が分からない。
これって、登場人物達が安いホラー映画を撮影しているからドキュメンタリーのはずの映像が安っぽいホラーになってしまっているという映画業界への皮肉かとも思ったけれどどうも違うだろうし、編集されていない事実を映した映像なんて存在する事は無い!という主張かとも思ったけれど、それにしてはその主張の押しが弱いしで、ただただよく分からないだけ。

やたらと多用されるナレーションによる説明台詞もうっとおしくて仕方なかった。
このナレーション入れるなら途中に出て来る編集された映像の件はいらないし、そもそも説明台詞を後乗せで全部語ってしまう手軽さ、安っぽさったらない。説明台詞の多用で説教臭いだけになっていたし。
これもナレーションによる説明台詞に対する皮肉なんだろうか?
確かにこの頃前後の日本のドラマとかだと、チラッと見た感じでも説明台詞が多くてウンザリしていたけれど、アメリカの映画やドラマもそんな感じだっけ?と思ったのだけれど。
それとも、結局学生程度の素人のやる事なんて、この程度でしょ?という皮肉なんだろうか?

それに、事実をそのまま撮影している設定ではあるものの、カメラはきちんと喋っている人のバストアップばかりの映像で、登場人物達はまるで脚本に沿って各自が順番に喋っているかの様な綺麗な台詞割りも嘘臭さしかない。
普通あの状況なら、各自が勝手に喋ってしまって何処を映せばいいのか分からないというカメラの動きがあってもいいのに、そんな場面も無かったし。
一番不自然に感じたのは、序盤にキャンピングカーで移動中にゾンビに出くわして轢いてしまう場面で、ゾンビに初遭遇して自動車の前にゾンビが立ってこちらに向かって歩いて来れば普通ゾンビを映すはずなのに、車内の人物達のリアクションを押さえているって、このジェイソンってバラエティ班のカメラマンなのか?
ゾンビを殺した後に教授の顔のアップで一言言うとか、もう何処がドキュメンタリーなの?昔のハリウッドのアクション映画じゃん。

つまらないのは展開も。
キャンピングカーを運転していた学生が行き成り銃で自殺する場面から、早くも意味不明。
悩んでの自殺や、そもそもこの学生が何かしら精神的に問題を抱えていたり、精神的に弱いという描写がそれより前にあれば少しは納得出来るけれど、本当に突然でポカーン…。
銃も前振り無く出て来て、登場人物が「銃なんて何処にあったんだ!?」と言うけれど、それは見ている方のツッコミ。
一方で、自分の彼氏が噛まれて死んでしまい、ゾンビとなって復活したので撃ち殺したトレーシーはその後は彼の事に一切触れずに落ち込む様子も無く、このトレーシーの考えている事も分からないし、その後もその事に全然触れないのならそもそも彼氏がゾンビになって殺したという展開は必要無いので、この件を入れた意味さえ不明。

その後、学生寮に行ったり、町に行ったり、農家に行ったり、豪邸に行くけれど、それらの行動に何も意味を見出せない。
社会が崩壊してしまったので、何処に行けばいいのか分からなくなり、当ても無く彷徨っているのを表現しているとしても、何処の場所でも特に盛り上がる事無く過ぎ去るだけで、まあ退屈。
農家で出会った耳の悪い老人の場面は突如コメディになるし、終盤でゾンビに追い駆けられるトレーシーを助けずにジェイソンが撮影し続ける場面も、わざわざ初めのホラー映画の撮影と重ねて間抜けなゾンビにし、トレーシーが枝でゾンビを殴り倒したらカントリーがかかるとか完全におふざけの滑りまくりな演出もしてしまい、何でそれまでの雰囲気ぶち壊してまでちょっとした笑いを取りに来ているのだろう?と疑問ばかり。この悪乗り、いらないだろ。

何処に行っても盛り上がりに欠け、登場人物達も役が立たずに特に意味も無く死んで行ったり、トレーシーが突如キャンピングカーを盗んで一人でどっかに行ったり、急に州兵が出て来て物資を奪って行くとか、結局それで何を見せたかったの?と思える事が頻発。
まるで脚本に対して周りからあれやこれと言われて現場で手直ししまくったかの様な、分断されたミニエピソードの連続。
既に原作コミックスは出版されていた「ザ・ウォーキング・デッド」の様なテレビドラマをやりたくて失敗したかのよう。

謎なのはゾンビの扱い。
ジョージ・A・ロメロの「~・オブ・ザ・デッド」なので、他のゾンビモノやバイオハザードモノとは違い、ジョージ・A・ロメロのゾンビは理由は何であれとにかく死んでしまったらゾンビとなって生き返るという設定はあるものの、ゾンビに噛まれると致命傷でなくとも何かの病気や毒物かの様に衰弱して結構早くに死んでしまいゾンビとして生き返るんだけれど、こんな設定って今までのジョージ・A・ロメロのゾンビモノにあったっけ?
「ゾンビは食欲だけが残り、人を襲って食べるので、殺されても食べられてしまうのでゾンビは増えないんじゃないの?」というジョージ・A・ロメロのゾンビモノの致命的な欠陥部分を正す為にこんな設定にしたんだろうか?

それにこの「ダイアリー・オブ・ザ・デッド」って、この2008年の現代に始めて死者が蘇っているし、ゾンビも別設定っぽいので以前の「ランド・オブ・ザ・デッド」までの世界とは別世界・別時間軸になるのかな?

この映画、まだ若手の誰かが作ったゾンビモノなら「こんなのよくあるよね…」程度の粗製濫造されている映画で終わるけれど、これがジョージ・A・ロメロのゾンビモノなので、「ああ、これが歳を取ったジョージ・A・ロメロなのか…」とガックリした。
ただ、「死人はノロい。早く動いたら脚がもげる!」と言う台詞は、早く走ってしまう近年のゾンビに対する至極真っ当な説明と否定で、ここは流石ジョージ・A・ロメロ!とは思った。

☆★★★★

« | »

Trackback URL

Leave a Reply