ゾンビ

2014年11月15日 土曜日

ジョージ・A・ロメロ監督・脚本の1978年の映画「ゾンビ(Dawn of the Dead)」。

死者が蘇り、生者を襲い始めて三週間。生き残った四人はヘリコプターで安全な場所を探し、ショッピング・モールを見つけ、そこに籠城する。

かつての三大モンスターと言えば、「ドラキュラ・狼男・フランケンシュタインの怪物」と言われていたけれど、1980年代以降は「エイリアン・プレデター・ゾンビ」だとわたしは思っている。今では余りにも沢山の後続亜種映画が作られ、ゾンビを知らしめた映画がこの「Dawn of the Dead」のはず。
この映画が今でも語られるのは、単なるスプラッター・ホラー映画の走りだったからではなく、消費社会批判や社会性の考察を読み取れるという所だと思う。ショッピング・モールがゾンビから身を守れる安全な場所を作る事が出来、更に欲しい物や必要な物が揃っているからという以上に、生きていても死んでいても人は消費する為に集まって来るという皮肉はもちろん、この時代のゾンビという存在の比喩が今とは少し違う所もおもしろい。現在の映画で登場するゾンビは、圧倒的な数で攻撃性や憎悪向き出しで早い速度で追いかけて来るけれど、それがインターネット等の普及で溢れた他者からの違う価値観の押しつけがましさだったり、他者との違いを認めない、許せない偏執狂的な狭さから来る激しい攻撃性の比喩になっている。しかしまだ1970年代のこの映画のゾンビは呆けた意志の無い表情で、一人一人がゆっくりゆっくり迫って来て、気付くと何時の間にか周りを囲まれている。この当時は価値観の違いは静かに徐々に浸透し始め、知らぬ間に自分が他者とは違う事を気付かされ、言葉や意志が通じず、何を考えているのか分からない相手に対する恐怖の比喩になっている。ガラス戸の向こうのゾンビをジッと見つめている場面なんて、恐怖よりも自分と他人との違いは何なのかの疑問から何らかの答えを見つけ出そうとしている感じ。物憂げだけれど全体的にも1970年代の物憂げな感じで、その空虚な感じも雰囲気を作り上げている。この映画でのゾンビはベトナム戦争の賛同者達や帰還兵にも思えるし、ヒッピー達にも思えるし、そんな人々を気にもかけないアメリカの人々にも思えるし、この映画でのゾンビの象徴性ばかりを考えてしまった。
他の後続映画でもある「ショッピング・モールへ立て籠もる」のは、消費社会に対する批判もあるけれど、舞台設定としても抜群に良く、上手い発明。何でもあり、何でも出来る危険な外界から隔離した自分達だけの理想の住処。広いにも関わらず、狭さを感じてしまう精神的な窮屈さ。上手く行っていたはずが、一気に壊れてしまう平安な場所と、この場所の設定は、ショッピング・モールが出来始めた時代性もあり上手い事になっている。

話はショッピング・モールでの展開は非常におもしろいのだけれど、そこまでの流れがとても不思議な掴み所の無い感じ。始まりのTV局は設定の状況説明としては分かり易くて良いのだけど、主要登場人物四人の内半分の二人がテレビ関係者なのに、その設定が後に何かに関わって来る事も無いし、SWAT隊員二人の登場は何の人達がアパートに立て籠もっていて、何でSWATが来ているのかとかさっぱり分からないし、そもそもテレビ関係者達とSWAT隊員との関係性も「友人」以上の理由が無くてよく分からないしで、主人公達の設定が物凄いフワフワしている。それにゾンビに対してパイ投げ始めたり、強盗団が攻めて来たら騎兵隊の突撃のラッパ音流したり、ゾンビがワラワラといる中で血圧測る奴とか、変なコメディ要素は一体?皮肉にしては笑いに走り過ぎだし、この映画でそんなに笑いを狙う意味も分からないし。ここら辺は脚本の緩さか。

それに低予算だからか、ゾンビ達は驚く程安っぽい。顔を青く塗っただけで蘇った死者は流石にきつい。なので、怖さがあんまり無い。ただ、ロジャーが噛まれて寝床で息絶え、再びゾンビとなって起き上がる場面では、その持って行き方に加え、メイクも良く出来ていて、悪夢でうなされる位の恐怖。この場面が一番怖いし、嫌~な感じで一杯。それに、同じくスティーブンンのゾンビ後の焦点の無い目と、ヨタヨタした歩きも恐ろしい。

この映画、確かに亜種ゾンビ映画やゲームを作りたくなるのも分かる終末・崩壊・生き残り・ホラー・社会批判・人間性等の魅力ある要素が詰まっている。ショッピング・モールでの展開も良いし、わたしにとっては怖い映画じゃなくて上手い映画。

☆☆☆☆☆

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