アーティスト

2016年07月28日 木曜日

ミシェル・アザナヴィシウス監督・脚本・編集、ジャン・デュジャルダン主演の2011年のフランス映画「アーティスト(The Artist)」。

1927年のハリウッド映画界でスターだったジョージ・ヴァレンティンと出会い女優を目指し始めたペピー・ミラー。
ジョージ・ヴァレンティンは次々とヒット映画を送り出し、ペピー・ミラーも端役から徐々に役が付き始めていた。
しかし、映画業界がサイレント映画からトーキーに移行し始めた中でもジョージ・ヴァレンティンはサイレント映画に拘り、完全トーキーに移行した映画会社を辞め、自らサイレント映画を作るが、最早時代遅れのサイレント映画はヒットせず、徐々に落ちぶれて行く。
一方のペピー・ミラーはトーキーで名を売り、大女優となっていた。
落ちぶれてもジョージ・ヴァレンティンはペピー・ミラーの憧れであり、恋する人だったのでペピー・ミラーは彼を何とか救おうとするが…。

時代が1927年から始まり、その当時の映画の様にこの映画も白黒で4:3のスタンダードサイズの無声映画になっている。
始まりも白黒時代の様な初めに出演者や制作陣の名前が出るオープニング・クレジットという拘り様で、始まりから心捕まれっぱなし。
わたしはそれなりに少しは古い無声映画も見ているし、何でか見て好きだった映画に白黒映画が多いのもあり、現代に見事に白黒無声映画をしているという上手さと付き所に感心して、非常にワクワクで見れた。

映画自体も陽気で見ていて楽しいジョージ・ヴァレンティンと、彼に見出され徐々に売れて行くペピー・ミラーとの恋愛劇も非常に楽しいし、その後のジョージ・ヴァレンティンの没落とペピー・ミラーの憧れと恋が混じった悲喜劇も非常に見応えがある。

ただ終盤以降は結構尻すぼみに盛り下がってしまった。

一つはジョージ・ヴァレンティンの葛藤の描きが不十分な事。
ジョージ・ヴァレンティンが無声映画に拘るのはよく分かるけれど、何故トーキーをそこまで拒否し、怖がる所まで行っているのかがいまいちピンと来ない。
無声映画でスターになったから無声映画を続けるのは分かる一方で、彼は人からチヤホヤされる事が目的なのか、映画が好きだから映画を作るのかがはっきりせず、何故映画俳優をやっているのかが分からない。なので、何故トーキー映画を撮る事されもしないのかも分からず。
トーキーを撮らないのはジョージ・ヴァレンティンがガチガチの保守的な人間だからかと言えばそうではなく、新人のペピー・ミラーを抜擢したりと新しい事にも挑んでいるしで保守的過ぎる人でもないし、今まであれだけ精力的に映画を作っていたのに、落ちぶれると急に無気力になってしまう理由も全然ピンと来ない。映画が好きだったら恥を忍んで頼みに周るだろうし、逆に今までの様にスターでありたいとか、地位を維持したかったら、普段の生活でもっと見栄を張るだろうに、それも無いので、結局ジョージ・ヴァレンティンが何処向いているのかが分からない。
それまで見向きもしなかったトーキー映画を見に行く理由もはっきりしないし、何で心変わりし、何で心変わりしないのかが見えて来なかった。

それに、ジョージ・ヴァレンティンにペピー・ミラーと運転手のクリフトン以外、誰も救いの手を差し伸べないのも不思議。
ジョージ・ヴァレンティンって、スターのわがままさもあるにはあるけれど、他人を蹴落とす様な酷いわがままではなく、あの陽気さから皆に好かれるスターだったはずなのに、映画一本失敗して、その後誰も彼を助けようとしないのは何なんだ?
まだジョージ・ヴァレンティンが自分勝手過ぎて周りの人を振り回している描写があったら分かるし、失敗後のサッと友人知人が引いて行く描写があれば彼の境遇は分かるのに、そんな描写も無く、結局は意外と人から好かれていなかったという事なの?

あと、ペピー・ミラーも無邪気と言えば良いけれど、結構無神経でイラッとする所がある。
自分がスターになり、憧れでもあり恩人でもあるジョージ・ヴァレンティンの事をすっかり忘れて「古いスターは去れ。」と言ってしまったり、落ちぶれたけれどスターでもあるジョージ・ヴァレンティンに自分が仕事を与えて救おうとか、彼の自尊心を上手く傷つけるったらありゃしない。
しかも、「あなたの事を憧れている…。あなたが好き…。」だから、ジョージ・ヴァレンティンが売り出した家財道具一式を買いまくり、自分の家に置いておくって、そりゃあジョージ・ヴァレンティンも恐怖を感じるだろうに。

無声映画を活かしている様で結構微妙な部分も。
序盤にトーキーが登場し、それを知ったジョージ・ヴァレンティンが自分の周りの人や物の音が鳴り始め、しかし自分の声は聞こえないという、正に無声映画からトーキーの不安を無声映画だから出来る演出でし、始めは「うわ、これって、これからメタフィクション的に無声映画内でトーキーを表現して行くの!?すげー!!」と思ったものの、以降は普通に無声映画のまま。だとすると、単に脅かしのお遊びで、暫くすると「あれ?あれってしょうも無いし、浮いているなぁ…」と盛り下がってしまった。
それに、途中から「これって無声映画で、ジョージ・ヴァレンティンは無声映画に拘っているのだから、もしかしてこれまで映画で描かれた全ては実はジョージ・ヴァレンティンが主演で自ら監督したサイレント映画で、最後はジョージ・ヴァレンティンとペピー・ミラーがスクリーンの前に立ち、まるで始まりの舞台挨拶と同じ様にジョージ・ヴァレンティンが観客からの喝采を浴びて、『トーキー時代においてもサイレント映画でこれだけの素晴らしい映画作れるんだぞ!』と言うこの「アーティスト」という映画自体と映画内容が重なるトンデモない二重の意味を持ったオチになるんじゃないの?!」と思っていたんだけれど、「ジョージ・ヴァレンティンはトーキー時代にはダンスで成功出来ました…」という何とも安易で普通で、自分の力で切り開いた感の薄い味気無い終わりだったので、わたしが勝手に肩透かし。
その最後の二人のタップダンスが、「凄い!上手い!」にはならず、「あれ?これって、上手いか…?」とそこでつまづいてしまったのもあるし。躍動感が無いと言うか、決められたダンスをちゃんと踊ろうとしているだけと言うか。

ジョージ・ヴァレンティンの愛犬も初めは可愛らしく思えたのに、この犬を結構頻繁に使ってしまうので「良く調教されている、タレント犬」の印象ばかりが先行し、あざとく見えてしまった。
特に火事からジョージ・ヴァレンティンを助け出す為に走り出す犬なんて、あざと過ぎて白けまくり。

それに白黒映画なので、過去の白黒映画で作られて来た陰影を印象的に使った画作りにも期待したけれど、この映画ではそんなに印象に残る陰影の演出は無かったしなぁ…。
当時の白黒無声映画を再現しようとしてはいるけれど、何だかカット割りは現代的だし、パンやティルトも当時の映画っぽくなく良く動いていたし、これまでの白黒映画をなぞった感じしかしなった。
特に、この映画の「無声映画からトーキーに変わり行く中で取り残されそうになりつつも、ミュージカル映画にして成功」って、ほとんど「雨に唄えば」じゃん。だから、見ている途中から既視感があって斬新感が無く、今までの映画の焼き直し感を感じてしまったのか。

音楽に関しては、わたしは延々と音楽が鳴っている映画、特に西洋古典音楽が鳴り続けている映画は頭が痛くなってしまい見てられない、聞いてられないんだけれど、この映画は音楽がうるさいと思う事も少なく見れたと言う事は、それだけ音楽が素晴らしかったんだと思う。
ただそれでも、終盤は音楽が気になり始め、映画自体も無声映画にしては長く感じられてしまった。

主演のジョージ・ヴァレンティン役のジャン・デュジャルダンは物凄く良かった。
陽気なスターその者だったし、コメディも落ち込んだ顔も非常に輝いていた。
見た目は完全クラーク・ゲーブル。この伊達男感は素晴らしい。

一方のペピー・ミラー役のベレニス・ベジョがいまいち良くない。
奔放さや若手からスターになって行く様は良いけれど、痩せ過ぎ。この当時の女優のグレタ・ガルボとかマレーネ・ディートリヒって、ベレニス・ベジョよりも肉付いている印象なんだけれどなぁ。ベレニス・ベジョの手ガリガリだったし。
それに普段の時の髪型も物凄く現代風だったし、現代の女性にしか見えなかったんだよなぁ。もっと、当時の女優っぽい人もいたんじゃないの?と思ったんだけど、このベレニス・ベジョの旦那がこの映画の監督のミシェル・アザナヴィシウスだと知って、そういう事だからなのかと納得。

運転手クリフトン役のジェームズ・クロムウェルを見ると物凄く不思議な感じ。もう、大分おじいちゃんのジェームズ・クロムウェルが1920年代の白黒映画に出ていると思わされると、時空を飛び越えてしまう。

あと、何で始めに少しだけマルコム・マクダウェルが出ていたんだろうか?その後全く出て来ないし。マルコム・マクダウェルの存在感があり過ぎて、彼が何かあるのかと思いきや何もないままだし。

この映画、現代に白黒無声映画をここまで作り上げたという点では素晴らしく、非常に楽しく見れるけれど、所々の描写不足でつまづいて、そこがもっとあればもっとおもしろく感じられたんだと思う。
それに内容の題材上、白黒無声映画であるしかないんだけれど、もっと白黒映画的な映像美も見たかった所。
第84回アカデミー賞で作品賞や監督賞を取っているけれど、白黒無声映画だったからで、映画内容的にはそこまでなのかなぁ?とは思う。

☆☆☆★★

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