時計じかけのオレンジ

2015年12月12日 土曜日

スタンリー・キューブリック製作・監督・脚本、マルコム・マクダウェル主演の1972年の映画「時計じかけのオレンジ(A Clockwork Orange)」。
アンソニー・バージェスの小説「時計じかけのオレンジ」が原作。

無軌道に仲間と犯罪を犯すアレックスだったが、捕まり刑務所で刑期を務める事となる。新たなルドビコ療法という洗脳療法を受けたアレックスは、暴力や性的な考えが浮かんで来ると吐き気を催し、嫌悪感で何も出来なくなってしまった。これによって更生したとされ、再び社会に戻る事になる。

この映画、非常につまらなかった。
始まりからして、主人公の独り語りで延々と説明台詞が続く時点で、この手の、心情や状況説明を独白で進めてしまう映画にはまず当たりが無いというわたしの印象そのままで、早い時点から興味が削がれた。

見続けるのに耐えないのは、よく分からないナッドサット言葉と言われるスラングなのか若者の勝手な造語なのか、意味不明な言葉の羅列が頻発して「ん?」とその時点でつまづくうえ、各登場人物達は古い劇の様な回りくどく、大仰な台詞回しが続き、台詞を追って行くのが非常にしんどかった。
更に、そこに延々と西洋古典音楽が流れ続けるのもしんどかった。この作中の主人公じゃないけれど、わたしは映画で止めどなく音楽がガンガン鳴り続けているのを意識させる様な映画が苦手で、しかもそれがクラシック音楽だと頭がおかしくなりそうな程耐性が無いので辛かった。
それに、如何にもスタンリー・キューブリックらしく演出が間延びして退屈と言うのもあるし、特にこの映画ではスタンリー・キューブリックの演出がズルッズルに滑っているのもつまらない要因。深刻な内容なのに変に笑かしの演出を入れている割に、それが全然笑えない。快活な音楽に乗せての早回しの3P場面なんて完全にコメディなのにクスッとも来ないし、主人公が老人達に囲まれてボコボコにされる場面でも一々老人達の変顔を挟み込んで笑かしにかかっているのに笑えないし、警官になったかつての仲間にボコボコにされる場面でも警棒で主人公が殴られるのに合わせて大きな効果音が入るけれど、これって完全音効ギャグなのに全く笑いが起こらないし、しつこいしで、スタンリー・キューブリックってコメディが下手くそ。見ていたら、舞台がイギリスと言う事もあって、奇抜な衣装やセット等シュールな画面作りやヘンテコな笑いからモンティ・パイソンに影響された感じもするけれど、この映画はそのモンティ・パイソンのスケッチから笑いを全く無くした様な映画になっている。

この映画では暴力表現が賛否の的になったらしいけれど、わたしが見た限りではそこは安っぽいと言う部分で否の方。だって、暴力を描いてはいるけれど、それを演じている役者達と演出が下手くそなプロレスごっこにしかなってないし。初めの少人数の集団同士での戦いなんて、正面からのドロップキックとか、両手をグルグル回して殴っているだとか、舞台からのトペ・スイシーダを綺麗に受け止めるとか、舞台から落とされたら下に机があって綺麗に机破壊とか、綺麗に回転して窓に突っ込むとか、明らかに壊す用の椅子や窓で相手を殴ったりと、プロレスごっこにしても下手くそな戦いで、終始ギャグ。もう、窓を突き破ったり、椅子で殴るなんてのを出したら、心の中で「ECW!ECW!」とはしゃいでしまったし。
警官になったかつての仲間に主人公が殴られる場面の、警棒で殴ると変な効果音の場面は暴力じゃなくて、コメディ。誰かのコントで、何かで殴ったら殴った様な効果音じゃなくてヘンテコな音が鳴って「あれ?」というのがあったように思うのだけれど、それってこれが元ネタなのかなぁ?
それに、主人公をボコボコにする老人達の顔芸や、復讐をする作家の大袈裟過ぎる顔芸、最後の主人公の志村けんの「だっふんだ」と「アイ~ン」を合わせた様な顔芸落ちとか、顔芸依存が高過ぎるだろ。最後の主人公の顔芸には流石に笑ってしまったけれど、どれも笑かすつもりは無い様で、じゃあその顔芸を挟んで来る演出の意図は何?ってなったし。

展開も、見せたいのは多分人間から自由を奪っての強制的な社会や、結局は全員自分勝手な人々しかいないという事なんだろうけれど、それだとその本題までの前半は長いし、中盤以降の皮肉的な主人公の巻き込まれも間延びしているし、刑務所を出てからの主人公が、まあ都合良く過去に犯した犯罪関係の人々に会って巻き込まれて行く安っぽさったらないし、前半は退屈、後半は都合良過ぎな展開もつまらなかった。

それに、この映画の説明等をインターネットで見ていたら、「管理された全体主義社会」とか書かれているのだけれど、そんな描写ってあったっけ?そう思っている作家の弁はあったけれど、主人公以外の社会が全然描かれていないので、凶悪犯を洗脳して更生する事以外にどこが管理社会なのかさっぱり分からない。主人公達が自由気ままに犯罪犯しているし、町の人々も何かに管理された様子も無ければ、町がどうなっているかも出て来ないし。
荒廃した未来っぽいらしいけれど、それも住宅地や集合住宅の入口がゴミで溢れている以外に描写が無く、町は普通のイギリスだし、この安っぽい近未来設定は何なのだろうか?
町には暴力が溢れている風なのに、夜に簡単に家に若者を入れてしまう防犯意識の欠如した一般住民と言うのも、まあ都合の良い事。

この映画でも有名な場面の一つ、「雨に唄えば(Singin’ in the Rain)」を歌いながらの犯行の場面は、わたしは元々映画「雨に唄えば」でジーン・ケリーが「Singin’ in the Rain」を歌って踊る場面が反吐を突きそうな位大嫌いなので、映画「雨に唄えば」に比べればましなんだけれど、この場面、被害者夫婦が暴行を受ける受けがしょっぱいし、主人公側も全然手緩くてやっぱりプロレスごっこだし、何より被害者夫婦が全然抵抗しないと言う所に違和感しか感じない。これも、何らかの管理社会や全体主義によって命の危険を感じても抵抗しない様な人間になっていると言う設定なの?

この映画、見る前は前評判から壮大なSFとして社会批判を戦慄的に描いているから評価が高いのかと思っていたら、全然描写されない世界観や、社会批判はあるにはあるけれど常に間延びして、じゃれ合う様なしょっぱい暴力表現の演出で常に退屈し、全然つまらなかった。
当時は刺激的な暴力と先進的な内容だったのかもしれないが、今見るとただ安っぽい。笑かそうとはしていないだんろうけれど、演出と演技のしょっぱさでプロレスごっこにしかなっていない殴り合い。これで狂気や暴力と言われても、今見ると色褪せてしまうよなぁ。

☆★★★★

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