大菩薩峠 完結篇

2015年11月23日 月曜日

森一生監督、市川雷蔵主演の1961年の映画「大菩薩峠 完結篇」。
大菩薩峠」「大菩薩峠 竜神の巻」から続く三部作の最終作。
原作は中里介山の新聞連載された小説「大菩薩峠」。

盲目になった机竜之助は宇津木兵馬に見付かり、仇討となる所を崖から落ちて逃げ延びた。何度も人々に助けられながら、やがて大菩薩峠の辺りまで帰って来るが、やっぱり宇津木兵馬一行は机竜之助を追って来ていた。

一作目、二作目と見たけれど、どうにも話がグダグダし散漫で、一作目の時点で続編を見るのがきつかったけれど、「これで終わるし、折角なので…。」という事で二作目三作目と見続けたけれど、やっぱり長期連載された新聞小説の悪い部分であろう所ばかりが気になり、この完結篇も非常につまらなかった。
宇津木兵馬に見つかり、これから仇討が始まろうとする所で机竜之助を毎回強引に逃げてさせてしまう見せ場の引っ張り。大して多くはない登場人物達が日本の各地に偶然集まり出会うという都合良さ。後から思うと、「あの話は何だったの?」と思える小話の連続等々、「日刊の連載で30年近く続けたなら、こんな感じになるだろうなぁ…」と思わせる総集編の短縮版みたいな話を三作、四時間半位見せられても辛い。
特に今作は今までして来た事の繰り返しも「三回目~!」なので、その連続にもう飽き飽き。始まりの机竜之助と宇津木兵馬の決闘は、二作目の始まりと同じく戦わず、盛り上げといたのに結局有耶無耶にされる。机竜之助が逃げれた理由が崖から落ちてしまったからなんだけれど、中盤で再び崖から落ちて、そこを偶然通りかかった女性に助けられるという展開がまた出て来る。中盤は机竜之助は目が見えないので偶然会った女性に助けられながら旅をするのが何度も繰り返され、「またかよ…」で物語としておもしろくない。

それに、これまでは机竜之助という話の中心軸の他に、宇津木兵馬の仇討と、祖父を机竜之助に殺されたお松の復讐と流転の話も軸となっていたのに、今回は宇津木兵馬はあんまり出て来ず、宇津木兵馬は机竜之助が人知れず行動しているのに必ず見つけ出す超能力を持った盗賊のおじさん七兵衛に付いて回るだけだし、何よりも全くお松が出て来ないのが酷い。ただ道端で会っただけなのにあれ程面倒見ていて、机竜之助を必ず見つけ出す盗賊のおじさんが終始「お松が行方不明」とだけ言って探しもせず、大菩薩峠に着くと「お松さんなら、ここにいるよ!」という台詞だけで片付けてしまい、どうやって大菩薩峠まで来たのかとかは一切描かない始末。大菩薩峠にいるらしいけれど、姿も一切見せず仕舞い。最後の方に机竜之助の妄想として、殺したおじいさんと死んでいないはずのお松の姿も見えるのだけれど、そこでもおじいさんの陰に隠れ、顔が少しだけ見える程度。多分、これまでお松を演じていた山本富士子が降板したか、何かしらの理由で出演出来なかったからの処置なんだろうけれど、それにしても今までの物語の軸になっていた人物を全く失くしてしまうという酷い扱いはどうしようもない。
その替わりに、江戸でお松の身を引き受けた花の師匠が浜松宿に偶然にもいて、その花の師匠が机竜之助の面倒を見た後、お松みたいに宇津木兵馬一行に付いて周るという展開になる。ここでも「何でお松の替わりに三人態勢にわざわざしなくていけないの?」と疑問ばかり。三人だと逆にお松で無い事で違和感しかないし、お松を思い出させてしまい、全然お松の穴埋めが出来ていない。

お松の扱いも酷いけれど、中村玉緒の扱いもなんだかなぁ…。中村玉緒は一作目は机竜之助の妻のお浜役で登場。二作目はお浜に瓜二つのお豊役。今作ではお豊に瓜二つなお銀役で登場と、毎回同じ顔で別人役、しかも全員そっくりという馬鹿みたいな設定。
妻とそっくりな女性が二人も出て来るとか、登場人物が偶然にも同じ町に集まったり偶然出会ったりとか、「業」だの「定め」なんて言えば聞こえはいいけれど、都合の良さはそれじゃあ隠し切れないし、ここまでやられると手抜きかお笑いにしかなっていない。ここら辺も長期連載の新聞小説だからなんだろうか?
二作目であれだけ重要人物として描かれていたお豊は、今作では特に活躍もしないまま序盤であっさり退場してしまい、非常に扱いが雑だし。

他の展開も、虚無僧の格好で旅をする机竜之助が浪人達と揉めるとか、道中で出会うがんりきの百とか、机竜之助が道で出会った少女を突然溺れ殺すとか、後から思うと「何だったの、それ?」という話が多く、まるで出来の悪いオープンフィールド型のロール・プレイング・ゲームを映画化した感じ。主となる話は無く、ずっとオープンフィールドを歩き回りながら細かいサブクエストを幾つもこなして行くRPGの様。
こんな展開なら、いらない部分を思い切って切って、もっと話を絞って見せる様な三時間位の一本の映画にした方が良いと思うのだけれど。まあ、映画会社的には、回転率の悪い長時間映画よりも、一本一本は短くして何本も公開した方が儲けは良いのだろうけれど。当時もそうだけれど、むやみやたらと一作で完結せず、二作、三作と続けて公開するという見る気の失せる売り方は今も昔も変わらないのかしらん。

しかし、「完結篇」なのにあんまり完結していないのも何だかなぁ…。結局は机竜之助を眺めている宇津木兵馬と和尚が勝手に納得していると言うか、和尚が分かった様な事を言って終わらせているけれど、宇津木兵馬はさっきまで自分の子供の名を叫び散らしていたのに、急に音無しの構えをして何かと戦う感じになって、「それが自分を悟ったと言う事?」と何だか訳の分からないまま、何を切っ掛けに自分の定めを理解したか分からないまま、家ごと流されて行く。これにはぽかーんとしたけれど、良く考えると一作目は何だか有耶無耶で逃げ延び、二作目は崖から落ちて逃げ延び、最後も洪水に流されてどっかに行ってしまったという最後までの天丼なんだ…。ただこれも、原作の新聞小説が未完で終わってしまっているという部分への配慮的な事もあるように思える。

そう言えば、二作目では一作目の復習も無いまま行き成り話が始まったけれど、それの反省なのか、今回は始まりに一作目二作目の復讐を二、三分で静止画とナレーションで見せ、非常に分かり易い導入となっている。これを見ると、一作目二作目を見る必要もないんじゃないかな?とも思ってしまう。

話はつまらないけれど、役者と画面の強さは素晴らしい。
市川雷蔵の陰のある感じや、優しさを見せたかと思うと急に冷酷になってしまう頭のおかしさも、市川雷蔵だとニヒルさで見れる。それでも説明描写が足りないので、人殺しの行ってしまっているヤバさが急激で付いて行けないし、市川雷蔵だとそのヤバさが男前で抑えれ過ぎている様にも思える。ただその男前のおかげで、道中で会う女性達が次々と机竜之助の面倒を見る理由にはなっている。男前じゃあないと、何で彼女達が面倒を見たがるのかは一切不明な位訳の分かんない行動だし。

この時代の映画って、今よりも画面作りがおもしろく、陰影の強調された照明や人物の配置とか、編集で誤魔化さずに画面を作っているのは流石。それに何よりもセットが凄く、一瞬外にセットを作って撮影しているかと思える位スタジオセットの奥まで、細かい所まで作り込まれていたり、最後の洪水の場面なんてスタジオに川作って雨を降らせて洪水を出現させているんだから半端無い。ここまで出来る、してしまう当時の映画界って本当に凄い時代だったんだなと感心ばかり。

この映画を含め三本のシリーズ全体でもつまらないシリーズだった。市川雷蔵だったから、画作りが素晴らしいから見ていられたけれど、話自体は飽き飽きする繰り返しの連続と都合の良さの頻発で話はつまらない。

☆★★★★
 
 
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