天地創造

2012年12月12日 水曜日

ジョン・ヒューストン監督・出演の1966年のアメリカとイタリア合作映画「天地創造(The Bible: in the Beginning)」。

原題の通り、旧約聖書の序盤部分の映像化。はっきりと旧約聖書は読んだ事無いはずだけれど、知っている知識では大体旧約聖書通りに、話そのままに映像化した様な映画。
天地創造から、アダムとイブ。カインとアベル。ノアの方舟。バベルの塔。アブラハム、イサクの話まで。

邦題でチャールトン・ヘストンの映画「十戒」と勝手に勘違いし、ない交ぜにし、てっきり大スペクタクルな映画かと思っていたら、非常に地味でまったりとした映画。淡々と各話を順番に見せるだけで、映像的な演出や派手さが無い。各人物をしっかり見せる割に、苦悩とか葛藤はあっさり過ぎる程だったり、そもそもそこに時間を割かなかったり、演技や演出で見せる部分を神の説明台詞で済ましてしまう手軽さで、見ている方の心の機微をどうにかしようという意図は感じられない。映像的、演出的に説明が足りないからかずっと音楽が鳴り続け、その音楽で盛り上げの起伏を付けている状態がずっと続く。それがしょうも無さを膨らましてしまう。
バベルの塔の話までは、世界と人間の成り立ちを描いた旧約聖書の神話で話はそれなりに見せているけれど、アブラハム以降の話は信仰や正当性の理由になるのでより地味に。

わたしはユダヤ教信者でもキリスト教信者でもないけれど、良く知られた旧約聖書を映像化しているので自分の知識とズレがあり違和感や気になる所も。欧米中心のキリスト教になってしまっているので、アダムは金髪碧眼。何より神も、アダムとイブも、他の登場人物も皆英語で喋る。確か禁断の実ってイチジクじゃあなかったっけと思うけれど、これでは金色に光る林檎の実。ノアの方舟では、カバって獰猛な印象が強いし、実際結構危ない動物なのに「温和だ」とノアが言っていたり。ソドムとゴモラの話で三人の神の使いがアブラハムの元にやって来るけれど、三人の使いってイエスが生まれた時の東方の三賢者じゃあないの?

これを見て思ったのは、旧約聖書では「考えるな。感じて信じれば良い。」という事が根本にあり、それが信仰なんだろうけれど、この信仰が無いと物語としての人物の行動理由としてはピンと来ない所。神は初めの頃は人間と言う子供に非常に目をかけていたけれど、最近ではこれらの話よりも全然酷い事になっているのに、今では神の関心は無い、子離れの時期か。その目のかけ方も結構根性悪な罠的試練だったり。旧約聖書ではやたらと罪で世界や町が崩壊するから、今でも数年、十年位に一度世界の終りを煽る予言だのが出て来る訳か。それにアメリカ映画では頻繁に世界が崩壊するディザスタームービーを作るけれども、それ程違和感が無く受け入れられるのはここら辺が理由なのか。それとも単にお金がかけられるからという単純な理由か。

ユダヤ教信者・キリスト教信者向けの説明的な宗教的教育映画でしかなく、映画としてはのっぺり、まったりで結構退屈。映画的に十分見せる題材であるのに、全然跳ねないこのこじんまりさは何だろうか?大作映画風で所々でお金はかけているけれど、人物の会話劇が大半で、そこに特に工夫も無く平板で安っぽいのが原因だと思う。
各話の主役を有名俳優が演じ、各話毎に違う監督が撮れば、おもしろいオムニバスになっただろうにと思わせてしまう。

☆★★★★

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