ニュー・シネマ・パラダイス

2012年05月07日 月曜日

ジュゼッペ・トルナトーレ監督の映画「ニュー・シネマ・パラダイス(Nuovo Cinema Paradiso)」。

映画に対する監督の想いを、映画を取り巻いていた状況と人々を哀愁という形で描いた映画。
子供の時の、映画自体もそうだけれど、映写室やフィルムに興味を示すっていうのは、凄く分かる所。子供の好奇心と、知らない事物に首を突っ込むワクワク感は上手い。ただ、昔の第二次世界大戦中のイタリアだから懐かしさなんて無く、むしろその知らない風俗や文化の日常感に「へ~。」という関心の方が強かった。全体に流れる映画に対する愛執や哀愁も、すでに映画館での映画文化よりもテレビ文化に移行した中で生きてきた者にとっては懐かしさ等無く、20世紀半ばに子供時代をイタリアで過ごした訳でも無いので、やっぱり「へ~。」という関心ばかり。別にノスタルジーを感じる映画でも無し。
神父によるキスシーンの検閲とか、時代によって内容はメロドラマから犯罪モノへ、女優はグレタ・ガルボからマリリン・モンローへと変化して行く映画の移り変わりとか、昔からイタリアでは外国映画は吹き替えだったのは識字率がそんなに高くなかったからとか、その当時のイタリアの小さな町の映画を取り巻く状況の成程というおもしろさは満載。ここら辺の映画に対する描かれ方、扱われ方は非常に楽しいし、ワクワクして見られる所。
また、九九が分からないと耳を引っ張られて黒板に頭をぶつけれらるとか、小学生なのに普通に煙草吸ってるとか、子供に映写技師をそっくり任してしまうとか、今見ると「え~!?」という驚きで、何ちゅう時代。

役者はたぶん、子供の時の子役が良いという事なんだろうけれど、この子役がやたらと演技するので見ていると段々と小賢しく、うっとおしい感じになって来て、もっと普通の子供だったら良かったのにと思ってしまった。やっぱりこの手の、子供が成長して大人になって行く映画は、いきなり子供から成長して別人の別の役者に変わると笑ってしまう。それにその成長した主人公のいたのは1950年代の半ばの時代なはずなのに、物凄く1980年代臭い感じもして、凄く違和感があった。あと、最後のサルヴァトーレが30年位ぶりに町に戻って来た時、サルヴァトーレは役者自身が別人のおっさんなのに、町の見慣れた人々は思いっきり老けメイクで大して歳をとっていない不均衡にも笑ってしまった。

良く分からないのはサルヴァトーレが惚れて毎晩バルコニーを見上げていたけれど、その彼女はそれを見ていなかったのに突然映写室にやって来てキスになったり、突然戻って来て劇的な雨の中のでのキスとか、その後の話も恋愛は非常にお座なりな描き方で、省き過ぎでさっぱり響かない。その他も急に出て来て、その後特に何も無いとか、別にいらなかったんじゃあ?とか、何の場面?という話も多く、妙に散漫としていたりも。あと、立ち見が沢山の映画館で、女性前、男性後ろで腰振っていたり、ヌード場面が映されると椅子に深く腰掛け、何やらゴソゴソして注意される少年達とか、ポルノ並みの下衆過ぎる下ネタを挟み込んで来るのは一体何?イタリアではそれが受けるのだろうか?わたしは苦笑いばかり。
最後の一番の感動場面であろうキスシーンの詰め合わせも、やたら長い割にサルヴァトーレの表情は少しだけで、何に感動しているのかもいまいちピンと来なかった。映写技師や映画が好きだけれど、若者にこの仕事をさせたくはないという歳行ったアルフレードの葛藤の話は感動的なのだけれど、その後がほぼ描かれないので、最後に向かって感動へという流れにもならないし。

一番良くないのは音関係。台詞は全てアフレコだから、声は浮いているし、口とは合っていない所もあるし、登場人物がやたらドスの効いた声だったり、甲高い変な声だったり、何か合っていない感じもする。
エンニオ・モリコーネの音楽は非常に印象的だけれど、音楽が前に出過ぎで、逆に映像よりも主張し過ぎで、段々としつこい感じがして来る。

良くこの映画は感動作と言われるけれど、映画とそれを取り巻く人々や環境の変化を愛情を持って描いて、その部分では非常に関心が向いて楽しいのだけれど、それ以外の恋愛や故郷や過去への哀愁がさっぱり響かず、「ふ~ん…。」位にしか思わず、感動作と言われてもいまいちピンと来なかった。

☆☆☆★★

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