ブレードランナー ファイナル・カット

2011年11月25日 金曜日

以前何回か「ブレードランナー」は見た事あったけれど、どうもピンと来てなかったはずだし、内容もあんまり覚えていなかった。で、今回「ブレードランナー ファイナル・カット(Blade Runner The Final Cut)」を見てようやくすんなりと、そして非常におもしろく見れた。
わたしが歳を取ったからなのか、色々と映画を見たからなのか、原作と言うか原案に近いフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を読んだからなのか、これが再編集された「ファイナル・カット版」だからなのか、大きいのはすぐ前に「デンジャラス・デイズ:メイキング・オブ・ブレードランナー」を見た事もあり、すっと腹の底に落ち着く様に入って来てこの世界を楽しめたし、話もなる程と思えた。

このフィリップ・K・ディックが「自分の頭の中を覗いたのか?」と絶賛した、退廃した近未来の世界の映像は素晴らしい。まさに、アナログSF映画の最高傑作の一つと言われ、これ以降のサイバーパンクやSFに影響を与え過ぎているのも分かる。この1980年代臭が強い近未来感は大好き。1950~1980年代の小説や映画の、パンチカードを吐き出すコンピューターや、やたらとコードや謎の装置でゴテゴテしている機械や、ブラウン管のモニター等、この世界とは違う別世界のSF感はたまらない。「ブレードランナー」でリドリー・スコットはそれらを上昇志向ではない曇ったディックの世界観にアジアの様な雑多感を混ぜて新たに表現しているのだから素晴らしい。ただこの映画が作られた1982年はアメリカでの日本の勢いが強かったとは言え、「゜コ゛ルフ月品」とか「充実の上に【壺】」とか、とにかく寄せ集めて真似した感が強い看板ばかりなのに、完璧主義者のリドリー・スコットは雰囲気だけで意味まで気にしなかったのだろうか。

話は「デッカードがレプリカントを追う」というだけなのだが、ハードボイルド、フィルム・ノワールの面が強く、これまたこの硬さと寂しさがたまらない。

俳優陣の演技もメイキングを見てからだとまた違って見える。ハリソン・フォードの不満感がありイラついているのは、実際に撮影が押し、待ちが長くなかなか演技が出来ず実際にイラついていたり、ショーン・ヤングがオドオドし怯えている感じのは、ハリソン・フォードとは上手くいっていなかったからとか。

今まで「ブレードランナー」がいまいちピンと来なかったのは、世界の端の少ししか見せない映画だからだと思う。大抵のSF映画は大きな出来事の真ん中を見せるけれど、これは大きな一部の一部分だけの話なので、この世界に戸惑いを覚え、デッカードの行動が良く分からなかったのだと思う。しかし今見直すと、圧倒的で深い世界観と無常の話に惚れ込み、確かに最高のSFと呼ばれるだけの映画だと改めて認識。
原案の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は、もっと哲学寄りだし、批判と言うよりも社会や宗教のパロディ的で、デッカードも冴えないおっさんだけれど、SFの体裁で書かれた現代小説の様な感じで、こちらも非常に素晴らしいが、映画は映画で違う攻め方を見せ、それも素晴らしい映画となり、原作と映画がどちらも著者と監督の作家性や嗜好が色濃く出た傑作になっているという、他の原作ありの映画にはない稀な出来栄え。読者、視聴者にとっては、小説から映画、映画から小説へと行き来し、何度も違った感覚を持って楽しめるという、嬉しいに関係となった映画。

☆☆☆☆☆
 
 
関連:デンジャラス・デイズ:メイキング・オブ・ブレードランナー

« | »

Trackback URL

Leave a Reply