チャッピー

2022年10月14日 金曜日

ニール・ブロムカンプ監督・脚本の2015年のアメリカ映画「チャッピー(CHAPPiE)」

2016年。南アフリカのヨハネスブルグの警察は多発する犯罪に対して兵器会社テトラバールが開発した人型の人工知能搭載ロボットであるスカウトを導入して犯罪を減らしていた。
スカウトを開発したディオン・ウィルソンは更なる人工知能を開発しており、新しいプログラムをインストールしようと攻撃を受けて廃棄処分となった1体のスカウトを会社から密かに持ち出した。
そこに金で困り大金を盗み出す為に邪魔なスカウトを停止させる方法を知っていると思ったギャング達がディオン・ウィルソンを誘拐。
しかし、スカウトを停止させる方法が無いと知ったギャング達はバラバラになったスカウトを見付け、ディオン・ウィルソンに組立てさせた。
ディオン・ウィルソンはそのスカウトにプログラムをインストールするとスカウトはまるで人間の子供の様な反応を見せながら学習を始め徐々に自らの考えも言葉で話す様になった。
そのスカウトをチャッピーと名付けたが自分達の為に犯罪をさせようとするギャング達は創造性を見せたチャッピーを育てたいディオン・ウィルソンを追い出してチャッピーをギャングとして育て始めた。

この映画はニール・ブロムカンプが2004年に作った二分弱の短編映画「Tetra Vaal」を基に長編化した映画なんだけれど、確かわたしはこの「Tetra Vaal」を何時か、大分昔に見たはずで、その時この「Tetra Vaal」の雰囲気が物凄く良く感じて、これが長編だったらおもしろそうと思ったのを覚えていて、それから多分十数年後に見てみた。

この映画は人間っぽい人工知能を描いていて人工知能と人間という古典的な題材をちゃんと現代で描いている中々おもしろい映画ではあったのだけれど、チャッピーを人間的に、感傷的に描き過ぎていて違和感を感じたり、ニール・ブロムカンプの映像や描いている題材の雰囲気は結構好きなのに「エリジウム」でもあったハリウッド映画的展開や盛り上げに白けてしまう部分もあったりで微妙な所もあった。

チャッピーは基本的に良い奴で、本当の親は創造性を信じるエンジニアなのにギャングに育てられてしまった、まるで貧しいけれど真っ直ぐに育てたい良い母と暴力を振るい悪い道に引きずり込む父親のいる家に里子に出された人間の子供を描いている様な話で、ロボットではあるけれど共感し易く作ってあり人工知能を見せるのには非常に上手いと思った。

ただ、そういう事を描きたいが先にあるのでチャッピーがやたらと人間的である必要があるのは分かるし、ディオン・ウィルソンがそういう人工知能として作ったと言われればそうなんだろうけれど、プログラムとしての人工知能が人間的と言うか、共感させようとする狙いが見えてしまってどうにも乗って行けず。
チャッピーの初めの子供みたいな反応って、まっさらな人工知能にしては人間的で、その後の反応も何故か人間の子供的な興味や優しさがあり、何故銃は怖がるのに投げ物は喜んでいるのか?の理由は無いし、ディオン・ウィルソンが作ったから彼の言う事を守る理由がよく分からないとか、全ての学びが余りに間を飛ばして一を聞いて千や万を知るになっていて都合良く感じてしまった。
子供から思春期に至る子供をチャッピーでやるのは分かるけれど、もう少しその過程を描いて欲しかった。

人間側も描きが少なく、ディオン・ウィルソンは最後あんまり戸惑いも無くあっさりと変化を受け入れていたり、ニンジャのチャッピーに対する感覚がいまいち見えて来なかったり、ヒュー・ジャックマンは何でそこまで自分の研究にこだわっているのか?とか、全然採用されないムースを研究し続けられている理由とか、何か人間の描きが足りない様に感じてしまった。
「エリジウム」に続けてシガニー・ウィーバーが出ているんだけれど、わざわざシガニー・ウィーバーが演じているので何かに絡んで来るのかと思いきや特に何かをする訳でも無い脇役でしかなく、この役が別にシガニー・ウィーバーである必要が全然無かったのも「?」だった。

終盤までは人間の様になって来た人工知能と人間の関係を描いていたのに、終盤になるとチャッピー対ムースの銃撃戦という、まさにハリウッドのアクション映画でよくある最後に主人公と敵のボスの一対一の殴り合いで決着をつける見せ場の為のアクション場面みたいな事をするので急に醒めてしまい、しかもムースの操作に人間の意識とか必要無さそうなのに人間の頭の外のヘルメットから人間の全意識を収集してデータ化出来る超技術が登場し、まだプログラムの人工知能のチャッピーのデータを解析するのは分かるとしても人間の全意識を一瞬でデータ化してとんでもない量になるはずのそのデータを一瞬で容量の限られたロボットの記憶媒体に入れて、そのデータでロボットを動かすとか、もうやり過ぎで一気に醒めてしまった。
この最後は思い付いたオチの為に大分やり過ぎてしまった感じ。

ただ、ニール・ブロムカンプの映画って何時も最後ハッピーエンド風だけれどそうではない、怖い感じで終わるのはおもしろいと思う。

この映画が描いている人工知能と人間とか、ロボットによる治安とかって、そもそもの一番の問題はテトラバールの緩々なガードキーの管理なんじゃないかと思ってしまった。
ガードキーでスカウトを無線で操作出来ているのに外部からのハッキング等が不可能なのは都合が良過ぎるけれど、町中の治安もそうだし、暴走したり誤作動があるだけで人に危害が及ぶスカウトは絶対に外部から侵入されてはいけないのに会社内部では何重のセキュリティチェックもせずに持ち出しは簡単に出来るし、持ち出しても明日までに返さないと上司に報告するだけとか、ここの会社の管理がザル過ぎるのが何より問題。
だからチャッピーは勝手に作れちゃうし、会社は終わりだろうし。

この映画、やりたい事や見せたい事は分かるのでここに乗って行けたらおもしろく見れるんだろうけれど、色々引っ掛かってしまうともっと脚本を詰めて欲しかったと思ってしまった。

☆☆★★★

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