サイレント・ランニング

2017年08月07日 月曜日

ダグラス・トランブル監督、ブルース・ダーン主演の1972年のアメリカ映画「サイレント・ランニング(Silent Running)」。

地球上の植物が絶滅した為に宇宙船内で動植物を繁殖させる「再緑化計画」が八年間進められていた。
しかし、本部から突然の中止命令が発せられ、宇宙船のドームを爆破しろとの命令が下った。
宇宙船バレー・フォージで植物を育てていたフリーマン・ローウェルはその命令に納得がいかず、乗組員を殺害し、一人で宇宙船を航行させてしまう。

1970年代の低予算SF映画なので仕方が無いのではあろうけれど、それにしても主人公の心と行動の揺れ動きについて行けない上に、設定の色んな部分がお座なりなので、一々「?」と疑問ばかり出てしまって全然話に乗っては行けず、非常につまらなかった。

主人公は言わば自然回帰主義者で、自然と共に生きる事が望みなのに突然の計画中で頭に来てしまい次々と仲間を殺してしまう環境テロリストへと変貌。
ここら辺までは、まあそういう人物を描くという事は分かるのだけれど、ここから一人での生活の中でドローン達と遊びだし、ドローンが楽しくて仕方なくなり、気が付いたらあれだけ信奉して人殺しまでした動植物の世話をせずに荒れ放題状態になってからやっと足を運ぶ状態になってしまうのが訳が分からない。
この主人公、狂信的信念がある風で実は全く無く、仲間よりも動植物の方が心地良いので動植物を守り、動植物よりも自分に懐く様にプログラムしたドローンが心地良ければ動植物はほったらかしでドローンにはまり、ドローンの様な機械が気持ち良いのであれだけ否定していた合成食品に手を出そうとしとする非常に日和見主義的な自分の気持ち良い方にばかり傾く人物で、常に自分勝手。
あれだけ喧嘩して意見が合わなかった仲間なのに、殺した後に「嫌いじゃなかった」とか、自然を自分が守ろうとしていたのに最後はドローンに自然の管理を任せて、自分は他の人に自分のした事を知られたくない為にまだ動いているドローンと共に自爆とか、常に自分の都合だけしかないので、ちょっと哀しげな感じに見せてはいるけれど自業自得感と自分に酔うのが鼻に付いて仕方ない。

それに、始めは「科学は人を幸せにしない!自然こそが生きる道!」的な、1972年のアメリカの中にあった如何にもなヒッピー・ムーブメント的な説教臭さしかないけれど、それはまだ分かりやすい主張ではあったのに、否定していた科学の結晶であるドローンに心酔し、ドローンに自然を託して自然を科学技術で存続させて自分は死んでしまうという選択をしたら、結局この映画は何処に向けて何を言っているのかがよく分からない事になっている気がしてならないんだけれど。
最後を見たら、自然は科学によって保存され完全自動化されたら人間はそこには必要無い存在って事?

それにSFの設定が一々引っ掛かる。
この世界では地球は動植物等の自然が壊滅し、一方人間社会は病気や貧困や失業が無くなっているというのだけれど、植物が無いと地球の環境は激変しているのに貧困が無いと言う事は食べ物は一体何から作っているのだろうか?合成食品が出て来るけれど、その素は何なのさ?フード・ディスペンサーの様な分子を操作してあらゆる食品を作り出すレプリケーターの様な技術があるの?
「再緑化計画」を進めているのは何故宇宙空間?地球で隔離ドーム作ってやればいいじゃん。
しかも、わざわざ太陽光線の少ない土星辺りでやっているので案の定太陽光が足りていないし、宇宙船に問題が起きた時に救出とか時間かかるんだから、もっと地球に近い所でやればいいのに…。
「再緑化計画」をあれだけの規模でお金かけて八年も研究しているのに突然何の理由も無く中止って、何をする気でお金かけていたの?
中止でドームを爆破させていたけれど、つまり木端微塵に、跡形無く消し去らなければならない程動植物は危険視されていたのに逆に繁殖させようとしていた計画って、何?
主人公は八年も研究していたのに記録さえ付けていない様だし、植物が枯れたのは太陽光が無いのが原因という初歩の初歩さえ知らないとか、絶対本気で研究していた訳じゃないでしょ。
主人公以外の乗組員もまるで頭の悪い大学生みたいな軽いノリで、何が起こるか分からない宇宙での長期航行に何でこんな人選なの?見事に研究者である主人公とそりが合わず問題起こっているし。

この映画で話題に挙がるのはドローンの可愛らしさらしいのだけれど、わたしは逆にこのドローンが怖かった。
基盤によるプログラムで動いているのに、どうやら自己学習能力があって人間的というフランケンシュタイン・コンプレックス的な部分ではなく、その動き。
人型アンドロイドが人間的動きをするのは何とも思わないけれど、このドローンはでっかい箱型なのにユッサユッサと人間的な動きをすると言うか、どう見ても人間が入っている動きがに恐怖を感じてしまった。
あの足の幅から小さい人が入って足で歩いている感じにも見えたけれどドローンの高さが人間の身長よりも大分低いし…と思ったので調べてみたら、中には下半身を失った人が入っていたそう。

映像は1972年の映画なので、良く出来ている部分と安っぽい部分は混在している。
人工重力がある程の科学技術なのに、ドローンのプログラミングは基盤を直接溶接しないといけないと言うのはちょっと驚いた。当時の感覚ではコードを打ち込んでのプログラミングとか、何かを簡単に入れての行動命令とかの発想は無かったのか。
特に驚いたのが、主人公が薄い全身タイツだけで船外に出て、しかも靴に磁力があって船体に引っ付いているとかの様子も無くそのまま歩いているのは酷かった。

宇宙船の造形は良かったけれど、動く映像で見ると非常にミニチュアっぽい。これって、カメラの問題なのか、撮影方法なのか?
この映画のSFX担当のジョン・ダイクストラは、この映画の五年後に「スター・ウォーズ」のSFXを担当するけれど、「スター・ウォーズ」だとそんなにミニチュアっぽさは感じないのは、やっぱりコンピュータによるモーション・コントロールカメラとかの理由なんだろうか?

この映画、SFとしては突っ込み所多過ぎて、自然回帰や一人での宇宙での暮らしとかの発想が先行し過ぎの都合の良さだし、説教臭さや教訓的な話風にしているのに主人公はただ自分が気持ち良い方に行くだけという身勝手さしかないので全然付いて行けずで全然おもしろくなかった。
この主人公って、当時のヒッピーに対する皮肉なんだろうか?

☆★★★★

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