華氏451

2016年12月19日 月曜日

フランソワ・トリュフォー監督・脚本、オスカー・ウェルナー主演の1966年のイギリス映画「華氏451(Fahrenheit 451)」。
レイ・ブラッドベリのSF小説「華氏451度」が原作。

本や書物が法律で禁止された近未来では、消防士達が人々が隠した本を見つけ出し全てを焼却処分していた。
消防士の一人ガイ・モンターグはその働きから昇進を控えていた。
しかし、本を隠して家に持ち帰り読み始めてしまい、本と本を守ろうとする人々に傾倒し始めた。

思想を伝え、想像の世界に誘う本を危険視し、禁止した管理社会というディストピアSFとして設定は非常におもしろいものの、この映画に関しては設定も人物描写も緩過ぎて疑問と突っ込みばかりでグダグダしてしまっている。
この原作を読んでいないのでどれ位原作小説から改変されているのか知らないけれど、フランソワ・トリュフォーがSF嫌いらしいにしても余りにお座なりな設定と人物描写で折角の題材もつまらなくなってしまっている。

本が禁止された経緯が描かれないのはそういう世界だとして良いんだけれど、結構歳の行った消防士の隊長が若い時から既に本は禁止されていたと言っていたので随分と長期間の本禁止支配が続いているだろうと思われる中で、この社会では全然文字が使われていなかったり、学校でも暗算の暗唱教育だけで文字を教えている様子が無いのに何で人々は本を読めているの?
特に主人公は指で文字を追いながら読んでいたけれど、と言う事は一部のエリート階級は文字教育を受け、その文字を読める人達が本に一番接する職に就くという、本を読む可能性が出て来て主人公の様に本に傾倒する可能性が高くなる非常に危険な事をわざわざしているって事?
隊長が若い時から本の焼却処分を進めていたと言う事は既に数十年はこの体制で、町中は消防士や警察の目が厳しく密告制度もあるのに何であれだけ本が町中で出回っているのか不思議。
まだまだあれだけ簡単に本が氾濫しているのに、町中での行政の監視体制は少数の消防士が見回るだけという非常に簡単なモノだし、管理社会を描いているはずなのにその描写がテレビから流れる意味不明な小芝居の台詞に答えるだけで洗脳しているらしいとか、町中で消防士が「お前の髪型、襟足伸びてんな!」とバリカンで髪を切るというコントみたいな描写しかなく非常に適当。
別にSFにしたくなければわざわざ原作のあるディストピアSF映画を撮らずに自分で一から作ればいいのに、原作のあるSFをSF嫌いと言うよりも適当にSF映画を撮ってしまっているフランソワ・トリュフォーの想像の至らなさばかりが見えて来てしまった。

それに人物描写も適当。
一番は主人公が何故本を読む気になったかという最も大事な心変わりの部分がほぼ描かれていない。
怠惰な生活に飽きたかと言えばその様な描写がはっきりとある訳でもないし、昇進を控え、妻とも結構仲良くやっているのに現状の何に不満があるのかがさっぱり分からなかった。
まだ、「本を焼くなら私も死ぬ…と言って、自ら火を付けたおばちゃんの生き様、死に様を見て、何故彼等はそこまで本に入れ込むのだろう…?と興味を持ったので本を読んだ…。」なら分かるけれど、特に振りも無く、行き成り本を読むから訳が分からない。
例えば性衝動が抑えられない男子小学生や中学生がエロ本拾って来て深夜にこっそり見るという非常に分かりやすい事だって、この主人公の行動よりももっと描写するだろ。

あと、主人公が怪しい行動したり、本をこっそり持ち出す場面を何度も同僚が目撃しているのに、この目撃が一切何にもならないというのも意味不明。
この目撃場面を描いているのなら当然同僚は密告するだろうと思うし、そこから主人公が追い詰められるという展開になるだろうと思うのに、密告もせず、主人公の家に本がある事が分かるのも愛想を尽かした奥さんの密告という展開だし、じゃあこの同僚の目撃は何?
それに不思議だったのは主人公の家に着いた消防士達が家から出て来る奥さんを一切引き留めもせず、そのまま行かせた事。
奥さんが隠し持っていた可能性だったあるし、それを夫に擦り付けている可能性だってあるじゃん。
密告って、写真をポストに入れるだけで誰が密告したかは分からないんじゃないの?
これだと余りに消防士達がアホ過ぎだと思ったけれど、アホだから未だに本は町に溢れていたり、本を暗記している集団は簡単に見つかりそうなのに全然見つからないのも当然なのか…と思ったし。

最終的に本を暗記する集団が出て来てめでたしめでたし…とはなっているけれど、これって一番危ない解決方法だよなぁ。
一人一冊の本を憶えているらしいけれど、そもそも本丸々一冊全部記憶出来ないでしょと思うし、その人が急に怪我や病気や事故で死んでしまったらその本は一生無くなるんだから、それこそ本を暗記する前に書き写せよ!と思うし、本に関しては逃げただけで殺される可能性もある社会で、特に反政府運動や破壊工作も無く、本の内容を残す目的だけというのもいまいちピンと来ないし、字を書けるんだから町中の建物や壁に本の内容をペンキとかで書きまくればいいじゃんと思うのだけれど。

まあ酷い所一杯ではあるけれど、唯一感心したのは近未来のガジェットの中でもテレビ。
流石に1960年代のSFなので駅も無い住宅地から離れた野原の真ん中で階段を降ろして乗降するモノレールとか、技術は進んでいるらしいのに電話は交換手がいて喋る口と聞く口が別れている壁掛け電話とかが当時はどれだけSFしていてすんなりと受け入れられるモノだったのかはさっぱり分からないけれど、テレビだけはどうやらブラウン管型ではなく薄型で、4:3ではなく16:9っぽい横長テレビだったのはこの現在に見てびっくりした。
正に今のテレビ。
しかも、情報の双方向やり取りが出来る風なのも今と同じ。
唯一ここだけが良く出来たSFなんだけれど、しかし今見てしまうと当たり前の事なので逆にSF感は無いという変な事にもなっている。

それに、オープニング・クレジットでは一切文字が画面には出ず、ナレーションで制作陣や出演者を紹介するという、この映画内での社会を表す演出でそこでは掴まれたんだけれど、良く考えると字幕で見ていたのでそれも台無しだという事に気付いてちょっと笑ってしまった。
日本語吹き替えだと色んな部分で問題があるけれど、たまにこういう字幕だからの台無し問題ってあるよなぁ。
多分、今まで見た映画の中でも上位の字幕で台無しになってしまった事に入る。

この映画、SFとしては設定が温過ぎるし、人間ドラマとしても各登場人物の描写が薄くてピンと来ないし、映画としては駄の方だけれど、そもそもの根本的な問題としてSFに興味は無いフランソワ・トリュフォーに撮らせるべきではなかった。
アメリカ人のレイ・ブラッドベリが原作者で何でイギリス映画なのかも分からないけれど、何でフランス人のフランソワ・トリュフォーが監督と脚本をしているのかが分からないし。
これはこの映画がどれ位改悪されたのか、ちゃんと原作読まないといけないな。

☆☆★★★

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