大巨獣ガッパ
2016年08月03日 水曜日野口晴康監督、川地民夫主演の1967年の日本の怪獣映画「大巨獣ガッパ」。
プレイメイト社は五周年を記念し建設する事になった南国風テーマパークに必要な動植物を現地調達する為、記者の黒崎浩や生物学者の殿岡達を南太平洋へと派遣。彼等はオベリスク島に着いた。
オベリスク島には島民達がガッパと呼ぶ守護神の存在があると事を知り、島を探検すると、地底湖で卵から孵化したガッパを発見する。
ガッパをテーマーパークの目玉としてや学術研究の為に日本に運び出すが、オベリスク島からは二匹の親ガッパが子供を探し日本へと向かっていた。
当時の怪獣ブームに乗っかって日活が始めてで最後となった怪獣映画を撮ってみました…な映画で、日活が怪獣映画に慣れていないからか、色々と微妙。
当然子供向けとして作られているのだろうけれど、展開もガッパの造形も微妙。
始まってからガッパが出て来るのが30分位してからだし、本格的に親ガッパが暴れ出すのが一時間位してからと遅く、わたしもそうだったけれど、子供が見ても掴まれる部分が少ないままダラダラと続くので飽きちゃう。
ガッパ夫婦は子供を追い駆けて日本まで来るという辺りまでは分かる展開なのに、町を壊すという怪獣映画の定番を始める為にガッパ夫婦は空飛べるのにわざわざ町を壊して回り始めてからのどうでもいい感は強くなり、ガッパの大暴れで周辺の人間を殺しまくって行ったのに、最終的に怪獣の親子愛に落ち着き、人間達に「色々あったけれど、ガッパ達に大切な事を教わった気がする」とか言わせちゃうのには呆れた。
そりゃあ、あんた達は傷付かず、ワクワクして顛末を見ていたんだから教訓を垂れもしたいだろうけれど、被害にあった人達からすれば「ふざけんな!」だよな。
この映画の全般的に、子供向け怪獣映画に下手に説教臭い事を入れて大人も意識した作りにした事で非常にうっとおしい人物と脚本になってしまっている。社会批判にするにしても、どれもこれも中途半端で、全て登場人物達の台詞だけで表現しているのだから非常にしょっぱい感じしかしないし。
そして、怪獣映画で一番重要な怪獣の造形が微妙過ぎるのも問題。
ほぼ人間と同じ直立二足歩行というのはこの時代の着ぐるみ怪獣としてはしょうがないけれど、ガッパという名前だから河童を基にしたかと思ってしまうのに、背中から翼があり、見た目は烏天狗と訳が分からない造形。なのに全身緑色で、そこは河童っぽい。
カッコ良くも無く、怪獣の怖さも無く、背筋をピンと張った奇妙な巨大な妖怪が歩いて来る姿を見て、どう思ったらいいのかずっと悩んでた。
不思議なのはこの巨体で空が飛べてしまう事もだけれど、空を飛べるのに海中に潜って移動するという、見た目の通りの河童と烏天狗を合わせただけの行動を二種類も付けた事が不思議。どちらかだけでいいのに、空飛んで海潜っての二種類もあるので、ガッパの性質がブレているし。
この空を飛ぶのも、翼をバサバサと羽ばたかずに、翼を開くとスッと空に浮き上がり、最早生物ではなく魔法の様。
それに、このガッパは口から謎の光線も吐くという、これまた当時の子供向け怪獣の特徴もあるのだけれど、この光線が謎なのはその光線が出ているのが口の奥、体内から出ているのではなく、下顎の舌がある所から発射されている事。単に合成の出来の悪さだけかもしれないけれど。
子供のガッパは棒で突っ突くと電気を放電するんだけど、結局これが何にもならないまま、以後の話で活かされる事も無いままで終わったのは一体何の為に出したんだろう?
あと、この時代の邦画のSFでたまに見る「日本人なんだけれど、全身の肌を濃いめの化粧で塗れば外国人」というのこれでもしており、当時ではこれでも外国人として認識されていたのだろうか?どう見ても、日本人の悪ふざけにしか見えないんだけれど。
特に島民の子供は島にいた時は東南アジア人やポリネシア人に見えたのに、日本にやって来た時には肌の色が黒くなり、最早黒人だったしなぁ。
この映画、怪獣映画としてはガッパの造形や行動が微妙過ぎておもしろくないし、全部説明台詞で喋るだけの社会問題定義と恋愛話を中途半端に入れ込み、どれも撫でるだけで深い所まで生きもしないままなのでこちらもつまらないし、怪獣ブームの中で日活は結局これしか怪獣映画を作らなかったのも分かる気がする。
☆☆★★★