第三の男

2016年07月19日 火曜日

キャロル・リード製作・監督、ジョゼフ・コットン主演の1949年のイギリス映画「第三の男(The Third Man)」。

アメリカの西部劇小説家ホリー・マーチンスは、子供の時からの友人ハリー・ライムから仕事をくれるという手紙によって第二次世界大戦後アメリカ・イギリス・フランス・ソ連による四分割統治下のウィーンへとやって来た。
ホリー・マーチンスはハリー・ライムの家へと行くが隣人からハリー・ライムが昨日自動車事故に合って死亡したと聞かされる。
ハリー・ライムの葬儀の場へ行くと現地警察からハリー・ライムが密売に関係したと言う事を聞かされ、事故を怪しみ始めてハリー・ライムの友人や近隣の人々に聞き込みを始めると、自動車事故で倒れたハリー・ライムを運んでいた人物達は友人の二人以外にももう一人、謎の第三の男がいた事を知る。

よく名作映画のランキング等でも顔出す事の多いこの映画だけれど、見てみるとそれも納得。今見てもサスペンスとして中々おもしろいままで引き付けられるし、映像も非常に印象的だし、編集も上手い。

サスペンスとしては、主人公が呼ばれた会うはずの友人が死んでしまっている所から、葬儀には如何にも怪しい謎の人々が集まり、その人々が何者で、友人が一体何をしていて彼等と関係があったのか?と、人々が次々と登場する導入で一気に掴まれた。
現地の状況も友人の事情もよく把握してない外部の人間を主人公とする事によって、見ている方も話しにスッと入って行けるし、次から次に出て来る人々は親切そうだけれど怪しそうなので、この微妙な違和感で話しを引っ張って行く上手さもある。
そこから、「ここでオーソン・ウェルズ登場なの!?」という意外なオーソン・ウェルズの登場から最後まで一気に展開して見せ切る展開も上手い。

ずっと見せ続けるのは映像の上手さも。
白黒映画だけあって、光と影の演出や見せ方が抜群に上手い。特に夜の街中の場面では、映る陰で人物の感情表現やサスペンスの緊張効果を出し、最後の下水道ではワンカットワンカットが完成された構図と減り張りを出していてしびれた。
また、この映画の舞台となっている本当の第二次世界大戦後のウィーンの町並みも、今見るとSFの様な不思議な感覚に落ちる効果もあって見てしまう。荘厳で歴史のある煉瓦造りの町並みがある一方で、戦争で爆撃を受け倒壊し瓦礫となっている部分もある町並みは非常にSF的。それが本当だったウィーンをそのまま見せているのだから、この映像の強さったらない。

加えて編集も良い。
古い時代の映画って、話もそうだけれど編集でも間延びして退屈してしまう事がある。何時頃からかは分からないけれど、近年になればなる程、一場面ではカットを短く切って素早く見せる手法で緊張感を出そうとし、アクションなんかでは最早何をしているのか分からない程の素早過ぎる編集をしてしまっている事もあるけれど、この映画では会話場面でも結構短く切り、特に緊迫する場面では間々に周囲の人々の顔のアップの短いカットを挟み込み、結構近年的な短いカットで繋いで行く編集をしており、これで全然間延びせずに見れる。
特に最後の下水道場面では、よく見ていると何度も同じ場所が出て来てマゴマゴと逃げているし、結構長く続いているにも関わらず、映像と編集で緊迫感やワクワク感が途切れないままで見せ切り、所々のカットでは「うわっ!」という感嘆のため息さえ出て来る。

非常に上手いし、良く出来ている映画ではあるのだけれど、疑問に思ってしまう部分もある。
話の部分では、そもそもハリー・ライムがホリー・マーチンスを自分の所へ呼んだ意味が分からない。小説家という職業柄から好奇心は旺盛だろうし、古くからの友人が前日に死んでいるのだから絶対ホリー・マーチンスの死を気にするだろうに、わざわざホリー・マーチンスを呼び寄せてどうしようと思っていたのだろうか?自分を殺してまで逃亡する、身を隠すならホリー・マーチンスを呼び寄せる意味は無いし。
その後、ハリー・ライムがホリー・マーチンスの前に現れてしまうのもよく分からない。偶然ではなくわざわざ見に来ているし、何で暗がりでジッとしていたんだろうか?アンナ・シュミットには興味が無いと言って、実際アンナ・シュミットには興味が無い行動で、それでもアンナ・シュミットを見に来たなら、ホリー・マーチンスが外に出て来るまで幾らでも時間はあったので逃げ去る事も出来たのに、自分が死んでいないと見つけて欲しかったのか?でも、一方この後でハリー・ライムが説得し始めて皆には言うなという立場だし、それだったら何で初めは逃げたのか?逃げるなら何故顔を出して来たのか?とか、ハリー・ライムが何をしたかったのかが疑問。

演出の部分では、この映画ではやたらとカメラを斜めにしたカットを多用するのだけれど、これが緊張感を出さないといけない場面なら非常に良く分かる演出なのに、特にそれもない普通な場面で斜めの構図を多用する意味が分からない。結構「何で、ここのカット斜めなの?」と思うカットが多かった。

それに音楽も。
テレビの宣伝で使われてよく聞くだろうこの映画の主題曲「The Third Man Theme」も、確かにこの曲自体は良い音楽ではあるけれど、このコメディ要素のほとんど無いサスペンスで使う意図が分からない。
何でこんな快活で陽気な曲を使ったのだろうか?正直、全然合っていない。

あと、最後の場面は未練ばかりのホリー・マーチンスの側をアンナ・シュミットが一切無視して歩いて行くという非常に当然な流れで、これが非常に心地良い終劇としているんだけれど、この最後の場面、本来はハッピーエンドで二人が一緒になるらしかったそうなんだけれど、それって中盤以降の展開を全然違ったモノにしないと成り立たないはずなのに、最後までそのままで最後だけハッピーエンドにするつもりだったのだろうか?

役者は、ジョゼフ・コットンは見終わっても、これといった印象が残らない。サスペンスとして観客が自分を主人公として投影出来る存在としては良いのだろうけれど。
そのジョゼフ・コットンよりもオーソン・ウェルズの方が印象的。ジョゼフ・コットンが1940年代の男前の演技をしている一方で、オーソン・ウェルズは現代的な表情豊かで、表情で演技を見せる様な演技をしていて、この映画では強烈な個性。特に暗がりで顔に光が当たった時のいたずらっ子っぽい微笑みなんか凄く良い。
しかし、当時や今、オーソン・ウェルズが出ている映画として知っていて、全然オーソン・ウェルズが出て来ないとなると相当なネタバレなっているので、オーソン・ウェルズの出演は映画的には大成功だけれど話的には問題大あり。

この映画、今見てもサスペンスとしてもおもしろいし、駄目な男の恋愛話としても良いし、白黒映画の画作りの真骨頂を見る映画としても抜群に良い。

☆☆☆☆★

« | »

Trackback URL

Leave a Reply