バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2

2016年07月17日 日曜日

ロバート・ゼメキス監督・脚本、スティーヴン・スピルバーグ製作総指揮、マイケル・J・フォックス主演の1989年のアメリカ映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2(Back to the Future Part II)」。
シリーズ二作目。

前作で過去から戻って来たマーティ・マクフライ。そのまま未来に行ったエメット・ブラウンが未来からデロリアンで戻って来て、「君達の子供が大変だ!」と言ってマーティと彼女を未来へと連れて行く。
未来で事件を解決したマーティだったが、現在へ戻ってみると町は荒廃し見慣れた世界とは違っており、自分の母親がビフと結婚していた。
この歴史改変は過去、それも一作目で戻った過去の日に原因がある事を知ったマーティーとドクは再び1955年にタイムスリップする。

一作目も、この二作目も過去にテレビ放送で何度も見たけれど、改めて一作目を見てからこの続編を見ると、それまで持っていた一作目の印象と二作目の印象が結構大きく変わった。
元々、「一作目もおもしろいけれど、二作目での一作目の裏話的見せ方が非常におもしろく、二作目の方が断然おもしろい!」だったはずが、「いや、一作目の方が良く出来ていて、一作目の方が断然おもしろい!」に変わってしまった。
それが何故かは、二作目の構成。
一作目は未来に行った所で終わったけれど、制作者側としてはそういう笑いの終わりで続編の事は考えていなかったらしいのに、そこからそのネタを振りとして二作目に使ったので、あれだけ歴史に干渉する事を嫌がっていたドクがまだ起こってもいない未来の出来事を阻止しようとマーティーと恋人のジェニファーを未来に連れて行く展開がまず無理がある。見ていても「未来の出来事を変える必要無いじゃん…」と思ってしまうし、この未来へのタイムスリップで現在が変わり、1955年に行かないといけないという原因にする為の未来へのタイムスリップなので、結構強引に思えてしまった。
それに、この未来へのタイムスリップも変わってしまった現在も見せ場ではあるけれど、要は1955年への振りで、本格的にワクワクする事件解決編の1955年は終盤になってからと、結構本題に入るまでの振りが長過ぎる。未来にも行って変わった現在も見せ、再び過去に戻るのを見せたいのは分かるけれど、それらによって何を見せるかの絞り込みがフワフワしたままで詰め込み過ぎな感じ。
なので、1955年部分の見せ場がもっとあっても良いのに…と思える位結構サッと過ぎ去ってしまうので、もうちょっと見たい所。
特に一作目が、序盤であちこちに振りを入れ、伏線を張り、後から見るとあれがこうなって、この台詞がこの振りで…と楽しめ、主人公のマーティー目線、ドク目線、母親目線、父親目線とそれぞれの登場人物が非常に立つ軸が幾つも交わって展開されるという非常に良く練られた脚本だっただけに、この二作目があれがこうなっての伏線感が弱かったり、マーティーとドクは既に一作目で人物が立っているので良いけれど、他の登場人物ではビフ位しか役が立って来ず、母親も父親も一作目の際立ち感からすると物凄く脇役になってしまった感があるしで人物描写が弱くなり、一作目の非常に上手くまとめた感じに比べるとどうしても散漫な感じがしてしまった。

この二作目で一番良くないのは、三作目を作る前提で作られたので話が尻切れトンボになってしまっている事。
一作目は描かれないその後も期待出来、話自体もちゃんと上手く終えた感じだったのに、この二作目は完全に何も解決しないままで投げっ放しジャーマン。「構想があり過ぎて、一作では描き切れませんでした…」というのがあからさま。
確か、初めてこの二作目を見て、この終わりを見た時、「えっ?これで終り?ふざけんな!」と思ったはず。特に解決もせずに次回予告を入れてしまうある意味斬新過ぎる終わり方も、「30年前の過去行って、30年後の未来行って、今度は西部開拓時代?そこじゃあないだろ…」と期待が物凄く落ちた事を憶えている。
一作目にしろ、二作目にしろ、自分の親がまだ高校生だった過去とか、自分が結婚して子供もいる未来とかの近い過去未来に行っての世界や社会や人間の移り変わりやドタバタ劇が楽しかったのに、現在から100年前ってもうほぼ別の映画としか思えなかったし。

それに、一作目から続けて見ると、一作目の最後の彼女のジェニファーとこの二作目の始めのジェニファーが全然別人で「♪お前~誰だよ!」と初っ端から突っ込んでしまうし。

でも、後半の1955年の部分はやっぱりおもしろい。
一作目の盛り上がる部分を存分に使っての大きく変えない歴史の書き直しって、こういうのは他の映画でも中々なかったからなぁ。
この映画で好きな場面は、変更された1985年から再び1955年に戻って来て、まだ建築されていないライオン・エステーツの前でドクが現状をまくし立てて説明しながらマーティーとドクと二人でバタバタ走り回っている所。この漫才・コント的なやり取りと動きが好き。このマーティーとドクのドタバタバディモノって、シリーズを重ねる毎に強くなって行った気がする。

もちろん、未来の2015年も今見ると更におもしろい。
当時から頑張った未来世界ではあったけれど、今から見るとこの映画の2015年って、1980年代臭が半端無い。服装やら自動車の形とか、まあ1980年代っぽいダサさが満載。一つ一つの未来の事物が1980年代臭を掻き立てている。
特に一番1980年代臭を感じてしまうのはテレビの画像の粗さ。現実の今の高画質を見慣れていると、この映画でのテレビの画質は何度もダビングしたビデオテープ並みの粗さに思えてしまう。実際当時のテレビってこんなに画質良くなかったっけ?と思ったんだけれど。
当時のテレビ画質のまま30年後の未来とか、制作陣はテレビの画質を気にしなかったのかが不思議。この映画の未来世界でも他の技術が発展しているのだから画質も良くなるとは思わなかったのかしらん。ファックスはまだ頻繁に使われている様だし、様々な携帯機器が無いので、縮小化・高画質化・高機能化って1990年代以降の発想なのか?

ただ、この映画の未来2015年を今から見ると泣きそうになるのは、マーティーが事故で人生が変わってしまったという部分。
マイケル・J・フォックスはパーキンソン病を発症し、役者としての人生も大きく変わってしまったからなぁ…。

その未来予言の部分で言えば、NFLは見るけれどMLBは全然興味が無いので知らなかったけれど「カブスがワールドシリーズで優勝」と言うニュースが本当に2015年に実現しそうになっていたのには驚いた。
シカゴ・カブスはワールドシリーズの優勝は1908以来無く、リーグ優勝も1945年以来現在まで無い状態ながら、この映画での未来だった2015年では弄りネタっぽく扱われていたけれど、現実の2015年にはワイルドカードから勝ち上がってリーグ優勝決定シリーズで負けてしまったそう。
しかも、シカゴ・カブスには1945年のワールドシリーズでバーの店主のペットの山羊が球団から入場を拒否されたので「二度とカブスのホームであるリグレー・フィールドでワールドシリーズが行われることはないだろう」と言い捨てて帰った「ビリー・ゴートの呪い」があり、その呪いが続いていたというのだから、この過去の呪いに映画の予言と言い、この伝説的な実話に震えたよ。

そう言えば、マーティーの「腰抜け(Chiken!)」で切れるネタって、この「バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2」からだった。一作目見ていて、「Chiken!」が無かったよなぁ…と思っていた。

あと気になったのは、マーティー及びマクフライ家はマーティーによる歴史干渉がないと余り良くない人生を歩む事になり、逆にビフはそのままだと結構成功するのにマーティーによる歴史干渉があると駄目になってしまうという運命。
まあ、ビフは好き放題のわがまま野郎なのに成功するので、それが変わっても同情されない悪役としての役割だけれど、ビフって実は幸運過ぎる人間だよな。

この映画、どうしても上手く出来た一作目がある分、したい事は分かるけれど中々本題に入って行かずに中盤以降で盛り上がって来る展開とか、とにかく話を進める事に集中し過ぎて登場人物達が一作目よりも立って来ないとか、結局上手くまとめ切れずに三作目までの繋ぎにしてしまっている事とか、あんまり良くない部分が目立ってしまう。
後半のスポーツ年鑑奪還計画はおもしろいけれど、何と言っても解決しないままで続編へ…は、特に一本の映画としては結構酷い事。
一作目から繋げるのと、時間が足りずに三作目まで作るという事情からの苦肉の二作目感がどうしても拭えない様に思えてしまった。

☆☆☆★★
 
 
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