「WATCHMEN」日本語版 再び読む

2009年03月29日 日曜日

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最近「WATCHMEN」が映画化されこちらでも公開し、それに合わせてか原作の日本語版も復刊されと、「ウォッチメン」が大賑わいなので本棚から「WATCHMEN」の日本語版を取り出し、いつ以来なのか忘れたが再び読んでみた。読んだのはメディアワークス版の方で、こちらには巻末に各ページ、各コマでの解説が付いている。

いや、話の大筋は憶えてはいたのだが細かな所はさっぱり憶えておらず、読み出したら止まらず、圧倒された。もちろん話の展開もそうなのだが、それよりも話の構成、全ての設定の見せ方の上手さに驚愕。
現実の歴史や世界情勢を基にし、別の歴史を進むもうの一つの1985年のアメリカの中で、今までのアメリカのコミックの歴史を踏まえた上での初期のコスチュームヒーロー達と、その次の世代のヒーロー達の各人の現在、過去の思い出が複雑に交差しながら、様々な方法で話が展開していく多層的構成の素晴らしさにのめり込む。
そして、その一コマ一コマの絵の情報量が非常に多く、もちろん人物の感情描写もあるがちょっとした道具や背景、新聞の見出し等で世界の状況を見せて行き、その何気ないちょっとした情報が実は後から大きな意味を持っている事に気付き、何度も過去のページをめくり返してしまうのだ。本の最後の方に、そのコマでの出来事や物の細かい解説があるのだが、その解説を読み、細かな、そして丁寧に織り込まれた情報を知りその該当のコマを見て何度うなったか。
人物設定から、小道具から、全てがそれでなくてはならず、読み進めていくうちに何気ない事が二重三重の意味を持ってくるという、最初から最後まで非常に計算されつくして全てのコマに配置されている緻密さにため息が出てくる。その緻密な構成もあってか、一章読むのに一時間はかかった。
確かに最後のオチの方は、星新一のショートショートで見るようなアイデアストーリー的な所があるのだけれど、「結局はこうでもしなきゃだめなんだろう」、「結局全ての事実は一部の権力を手に入れた人物に握られている」というまさに現実に対する皮肉で重たくなってくる。ロールシャッハの様に狂人と呼ばれても最後まであらがうか、DR.マンハッタンの様にもはや違う所へ行ってしまうか、ナイトオウルの様にただ割り切って生きて行くか。物語の視点で行けばアラン・ムーアはロールシャッハを推しているんだろうが、誰にしても結局は物悲しい。
この作品の登場人物、特にヒーロー達は何か暗い部分があり、どちらかと言うと普通のヒーローコミックでは敵役になる様な人物が多く、誰もにもはっきりとした結論を見出さない描き方は読み終わってもモヤモヤしっぱなしで、そこからなかなか抜け出せない。最後の最後で、希望、もしくはそうでないコマで終わっているのもなおさら。でも「誰が見張りを見張るのか?(who will watch the watchmen?)」も、それはただ信念に生きる狂信的でもある個人と言う事か…。

いや、改めて「WATCHMEN」詠んでみたけれども本当に「すごい」コミック。読み飛ばせない、読み込ませてしまうコミック。この「後から見ると、全てのコマが意味を何重にも持ち、何かと繋がり、何かを暗示している」というのは、読んでいて体力を奪い、興奮をもたらす。
 
 
後幾つか:

この世界でも「DEVO」が活躍していた事に、ちょっとした喜び。アラン・ムーアもちょっと興味が行ったのだろうか?オジマンディアスもテクノが好きだと言っているし。現代音楽も好きって、アラン・ムーアの音楽嗜好の方向性、そこ?

そう言えば、これ最初にメディアワークスが刊行していたのに気付いていなかった。
DCコミックスのミニシリーズ?リミテッドシリーズ?と言えば、勝手に小学館プロダクションだと思っていた。復刊したのが小学館集英社プロダクションだった。いつの間に長い名前に?
 
原書の発刊から11年後に日本語版が出、その11年後に復刊とは、この11年周期は何?
 
「ウォッチメン」が長らく絶版で、妙に高価に値段がつけられていたとは。漫画大国を誇るなら、もう少し海外の漫画、アメコミの有名所ぐらいはもう少し刊行しては…。

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