八つ墓村(1977年)

2015年11月27日 金曜日

野村芳太郎製作・監督、渥美清主演の1977年の映画「八つ墓村」。
横溝正史の小説「八つ墓村」が原作。

寺田辰弥は新聞の尋ね人欄に自分の名前が載っている事を知り、法律事務所へと赴く。そこで寺田辰弥を探していたのが亡き母の父親である事を知ったが、その祖父は突然苦しみ始め死んでしまう。寺田辰弥は父方の親戚である森美也子に連れられて、祖父の遺骨と共に生れ故郷の八つ墓村に向かう。八つ墓村では腹違いの兄が病気の床に伏せており、辰弥が多治見家の大きな財産の相続者だと知らされると、腹違いの兄も祖父と同じ様に苦しんで死んでしまった。

この映画、金田一耕助の田舎の因縁推理モノであるのだけど、因縁やオカルト・スリラーとしてならまあまあの出来だが、金田一耕助モノとしては微妙だし、探偵の推理モノとしては酷い出来。

オカルト・スリラーとしては、400年前程の落ち武者達の怨念が28年前の多治見による村人の大量虐殺に繋がり、そしてそれを絡めた今回の連続殺人という多重構造になっていて、しかも最終的に寺田辰弥や森美也子の祖先が落ち武者達に繋がって、本人達は知らず知らずの内に復讐を果たしていたという不気味な話になっているという所は中々おもしろい構造と展開になっている。
ただ、これをわざわざ金田一耕助でやっているのだから金田一耕助が登場して活躍する必要性があるのに、金田一耕助が大していらないという展開はどうなの?
金田一耕助は終始八つ墓村の伝説や家系を調べるばかりで、殺人事件を調査している探偵と言うよりも歴史学者や民俗学者を見ているみたい。演じている渥美清は原作での金田一耕助像や石坂浩二や古谷一行等が演じていた小汚い書生という風貌が一切無く、ヨレヨレのスーツに麦わら帽子を被り、手拭いで汗を拭くという姿で、しかも常に大人しい人物なので、本当に学者にしか見えて来ない。
また、話自体も萩原健一演じる寺田辰弥の出生の秘密や多治見家の呪いを知って行くのが主軸で、ほぼ金田一耕助が登場しないまま話が進んで行くので、終盤まで金田一耕助がいらず、段々と何の映画を見ているのかが分からなくなって来る。ただ、調べてみると原作も寺田辰弥の語りが中心で金田一耕助が全然脇役らしいので、ここら辺は原作に忠実みたい。

中盤過ぎても金田一耕助が活躍せず、そもそも登場すら少なく、殺人事件もお座なりまま多治見家の話に集中して行くので推理モノとしておもしろくないのだけれど、終盤の金田一耕助の事件の推理が酷くて推理モノとしては全然駄目。
犯人の動機を細かくは説明しているけれど、各事件の詳細については特に説明する事も無く、事件の概要だけで済ましてしまい、下條アトム演じる村の巡査が「…でも、物証と言うか、証拠は…?」というこの映画の中で誰よりも最も鋭い質問を金田一耕助にすると、金田一耕助は急に困ったかの様に少し黙ってから、「そんな事よりも、この事件はですね…」とあからさまに話をすり替えて話を呪いという胡散臭い方向に持って行き、一切物証が無いままで事件を金田一耕助の推理だけで終わらしてしまう。結局、「何でおじいさんは殺されたの?」「どうやっておじいさんは毒を飲まされ、上手い事寺田辰弥の前で死ぬ様に持って行けたの?」「多治見久弥に毒をどうやって、何時仕込ませたの?」「校長先生の殺害は、本当は誰でも良かったと言うけれどその証拠は?」「多治見小梅だけ殺されて、何で多治見小竹の方は生きていたの?」「医者の先生や多治見春代をどうやって迷路の様な洞窟まで誘き寄せる事が出来たの?」「寺田辰弥は殺さないと言うけれど、財産目当てなら相続人である寺田辰弥を真っ先に殺さないと辻褄が合わないのじゃないの?」等々疑問しか出て来ず、殺人に関するそのやり方や様々な疑問な事柄に関しては一切描かないという推理モノとしては致命的に不味い事ばかり。「呪いや因縁を描くので推理は適当でいいや!」という姿勢がはっきりとしている…。悪い意味で。

あと、陰惨な場面が多いにも関わらず、それがやり過ぎで最早お笑い化してしまっているのも微妙な所。
始めに出て来る落ち武者達の欺し討ち場面は、それまで静かに話が進んで来た所で急に首を跳ねたら飛んで行くは、頭に斧を叩き下ろしたら血がピューピュー出るは、鎌で体を掻っ捌くのをしっかり見せるは、最後の落ち武者が急に変な化粧になるは、真面目に陰惨な場面をやっているよりは悪乗りが過ぎて笑かしにかかっているとしか思えない。
山崎努の殺戮場面も、山崎努は非常に真剣に演じているにも関わらず、顔だけ緑色に塗るという変な演出で、これも化粧の悪乗りし過ぎで、恐怖の場面なのに山崎努の顔が見えると笑ってしまう。それに、山崎努に切られる村人役のエキストラの人が、多分監督の「アクション」と言った掛け声から走り出しているのだろうけれど、その走り出す少し前からカットが始まっていて編集が下手クソだし。
落ち武者も山崎努も化粧が変だけれど、別に回想場面やホラー場面でも無い多治見小竹・小梅の御両人の化粧も安っぽい舞台劇の強調し過ぎて最早悪乗りになってしまっている化粧の様だし、最後の小川眞由美の鬼婆化のやり過ぎ化粧も笑ってしまったし、何でこんな化粧が全体的に酷過ぎるんだろうか?

この映画で一番おもしろい所は、序盤の萩原健一が多治見家にやって来て、全然自分の居場所を感じれない所。
葬式で親戚が多く集まった時によくある「近い親戚は知っているけれど、その親戚の親戚になると誰だか分からず、親はその人と普通に喋っているけれど、自分は誰だか分からないまま接していて、変な空間にいる事を認識する」感じ。この「自分はその集団の一部である事を理解して、そこにいるべき人物だとも分かっているけれども、ここじゃない感」というのが非常におもしろく見れてしまい、この気持ち良くない、居心地の悪い感じを追体験するのって凄く好き。外国映画だとこの場面はよくコメディになるけれど、特に笑いにもせず、否定的にも肯定的にも描かない感じが良い。

この映画、金田一耕助の推理モノとして見ると酷い駄作。連続殺人事件が起こって金田一耕助が出ているけれど、最後まで見ている側に犯人のヒントは全然無いし、最終的に「何で?」「どうやって?」という事もぶん投げてしまうので推理モノではなく、山奥の村の陰惨な出来事と呪いを見る映画だと思う。それでも、そこは「昔一人の頭のおかしい男が無茶苦茶しました」というだけで、他の多くの人々のドロドロした思惑が大して無いんだけれど。

☆☆★★★

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One Response to “八つ墓村(1977年)”

  1. 通りすがり Says:

    なんと2016年に松竹が、本作を再上映してくれましたので、劇場で見る事が出来ました。
    で、白塗りの人物のことですが、この化粧は、怨霊に乗り移られてるとゆーマーキングですよ。
    まぁ松竹ですし、歌舞伎の発想もあるんでしょうが。

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