100分 de 名著「斜陽」
2015年09月30日 水曜日毎回「100分 de 名著」を見ているけれど、この番組って、これを見たらそれで満足してしまってその取り上げた本はまず読まないな。まあ、まず読む事も無い、知る事も無い本の内容を知るという事では非常に良くて、伊集院光の笑いや身近な例えを交えた真摯な受講者としての反応が楽しくて見ているのだけれど。
番組自体は良いけれど、「100分 de 名著」って、紹介している本自体やそれにまつわるスタジオでの会話はおもしろいのに、途中に挟んで来るミニコントや俳優の如何にも演技していますよ的な朗読でつまらなくなってしまう事が多々ある。
ただ、今回の太宰治の「斜陽」は番組のそんな構成がつまらないのではなく、この紹介の内容では「斜陽」ってつまらない…って思ってしまった。
一回目の時点で「斜陽」が太宰治の愛人太田静子に書かせていた日記(後に「斜陽日記」として出版)から、そのままごっそり入れたと言うのを聞いて、その時点で興味が無くなった。要は、太宰治が自分のファンに手を出して愛人にして、その囲っていた愛人に書かせた自分に関係する日記からパクッたと言う事でしょ。文体も日記のままらしく、「斜陽」に登場するかず子は貴族の娘なのに全然貴族っぽくないらしく、「何じゃ、そりゃ?」。
内容も没落した貴族の娘と母親の確執と、作家の上原との不倫の話で、まあ興味無い内容。若い女性が読めば入り込むだろうけれど、おっさんが読んだとしても「結婚していても女とやりたければ、擦れていない良いとこの女狙え!」という上原目線の下衆な結論しか出て来ない気がする。
主役のかず子も、それまで貴族として良い生活して来て、それが終戦で状況が変わり、今までして来なかった恋にはまってしまい不倫をするけれど、それを「革命」と言って自己肯定している痛い奴。
このかず子も太宰治の愛人太田静子が題材で、かず子が愛人となる作家の上原は太宰治が題材で、この「斜陽」は愛人太田静子の日記から太宰治が書いている訳で、このかず子の生き方を肯定している太宰治のオナニー感が強過ぎて気持ち悪い。単に太宰治にとって都合の良い女を描いているだけの様に思えてしまうし、実際には太宰治は太田静子じゃない他の愛人と心中していて、今回の紹介ではただ太宰治のオナニー感とクソ野郎感しか出て来なかったんだけれど…。
この「斜陽」って、女性が読んで本当に共感したり、生きる指針となるだろうか?わたしがおっさんだから全然分からないけれど、今回の「斜陽」見た限りでは、「擦れていないってアホだし、何やかんやでとにかく自己肯定さえしとけば幸せなのか…」としか思わなかった。
それに男性二人が「『斜陽』って凄い!」と絶賛している中で(最終回はピースの又吉直樹も登場して男性三人で)、不倫もせず、ちゃんと三人も子供を育てながら仕事もしている女性の武内陶子アナウンサーは、もしかず子に否定的であっても肯定をせざるを得ない自由に意見を言えない状況で、ちょっと可哀そうと言うか、作りとしてどうなのかと思った。
伊集院光はラジオを聞いている限りは「かみさん、大好き」だし、高橋源一郎は五回も結婚をしている様な人で、又吉はギャル好きの未婚者だし、こんな男性陣から「斜陽」を褒めるだけの雰囲気の中で、武内陶子は「子供を三人育てて来た女性として、このかず子について言わせてもらいますと…」って、まあ出来ないでしょ。「こんなアホで、思い込みの激しい自己肯定女はねぇ…」とか「太宰治の嫌らしさがねぇ…」と、もし思っていたとしても言えないよなぁ。
太田静子の日記をパクってはいるけれど太宰治が書いているから男性達が語るのは間違いではないんだろうけれど、この男性陣の称賛の中では常に男性目線であって、「実際女性からしたら、このかず子って、こうでしょ。」というのが分からず、「斜陽」で主役として描かれているのは女性なのに、読者としての現在の女性の立場である武内陶子アナウンサーいるのに、その女性側の意見がはっきり分からないままって非常に消化不良。まあ、元々女性アナウンサーは進行がほとんどで、伊集院光が自分の思いや感想を言うという構成ではあるんだけれど。