すばらしき新世界 - オルダス・ハクスリー

2014年09月29日 月曜日

オルダス・ハクスリーの1932年のディストピアSF「すばらしき新世界(Brave New World)」。
録画した映画「デモリションマン」を見ようと作品情報を調べていたら、ウィキペディアに「『すばらしい新世界』の影響が強い。」と書かれていたので、映画を見る前に読んでみた。読んだのは、早川書房の「世界SF全集」の第10巻に収録されているモノ。

数百年後のイギリスでは母親からの出産は無くなり、全ての人間は試験管で着床し、壜の中で成長し、社会での自分の役割を洗脳されながら育てられ、生まれながらの身分制度で分けられる事によって安定した社会が形成されていた。しかし、そんな社会にも馴染めずにいる人間達もおり、そんな彼らは外部からやって来た全く違う考えを持った人間に触発されるが…。

これはディストピアSFではあるけれど、読み終わった印象では「社会に適合出来ず、上手い事やれない人々が悶々と悩む青春小説」と思ってしまった。それに、流石に1932年のSF小説だけあって、今読むと非常に時代性が出てしまっていて、SFや娯楽としては非常に微妙。ディストピアモノとしてはそれなりでしかない。

SFとしては、設定は20世紀から600年近く後にもかかわらず、登場するSFガジェットは1932年時点の近未来程度の科学技術なので、時代設定のやり過ぎ感と、SFとしてのやらなさ感で、非常にしょっぱい事になってしまっている。例えば、上流階級の移動手段はヘリコプターだったり、イギリスからアメリカへ行くのには大陸横断ロケットらしき物を使っているにも関わらず、移動時間は六時間以上かかる。情報媒体はラジオ・新聞が強く、テレビはあるけれどあんまり出て来ない。何の事を指しているのか分からない「人工音楽」(全ての人間が演奏する音楽は人工じゃないの?)を記録した物は、巻紙。上映されている出来事を直接感じる事の出来る「触感映画」なんてモノもあるけれど、それ以外大した科学技術が見られず、読んでいても1950~1970年代辺りの時代にしか思えなくなって来る。「真空管を使ったコンピューターがパンチカードを出す」とかは、何処かで分岐した平行世界として、むしろ楽しい要素になったりするけれど、この小説の世界観は流石に古過ぎ。
そして、このSFの骨子ともなっている社会に適合する人間を作り出す部分も中途半端。今なら遺伝子操作で病気や危険因子を取り除いてからクローン化する様な設定になるのだろうけれど、1932年だったら遺伝子という概念はあったはずなのに、受精は無作為に行われ、成長段階で化学薬品等でそれぞれの階級に適合する様に作られる。しかも、労働者階級の人間は着床した同じ卵子から同じ人間を一万人近く複製する。こんな事してたらこの世界の社会に適合しない人間が多く出来た場合の損失の大きさや、遺伝病とかがあればそれこそ大いなる無駄だと思うけれど、そこら辺は都合良く描かれない。また、子供時代に徹底的に刷りこまれる社会への適合は、全て睡眠学習。睡眠学習だけでガッチガチの社会に従順な人間を作り出せるお手軽さに馬鹿らしさを感じてしまう。SFって、馬鹿らしさを楽しめたら娯楽としては非常に素晴らしいけれど、真面目な社会批判の中で馬鹿らしさを感じてしまったらSFとして致命的。

小説としても微妙。始まりから、延々と丸々二章も子供が壜で育てられている事の説明に使い、その後も色んな出来事を挟みつつも基本は説明ばかりなので疲れて、早い段階で諦めが出て来てしまう。構成としては、読んでいる内に世界の全体像が見える方が引き込まれるし、徐々に見えて来る楽しさがあるのだけれど、長編小説にしては雑な感じ。
また、次の行になると行き成り登場人物が変わったり、時間が飛んで全く別の話になったりして、読んでいて「ん??」とつまずく事も多い。特に序盤の第三章で、八ページ位に渡って一文毎に違う人物が違う話をしている所なんて、もうめんどくさい。掴みでこんな事するモノだから、この部分から読み飛ばしの所が多くなってしまった。表現も、この時代なので回りくどい描写も多く、面倒臭くなって読み飛ばしてしまったし。

話はこの三章まで我慢して読めば結構おもしろくなって来る。主人公達は上流階級の重役なのだけれど、労働者階級の人間に近い背の低さに劣等感ばかり感じているバーナード・マルクス。管理社会の人間だけれど蛮人保存地区で生まれ育ち、その中で仲間から疎外されるけれど、管理社会にやって来ても見世物となり本来の居場所ではないと悩むジョン・サヴェジ。と、女性にモテない、出世したい、自分の理想と現実の相違等々、非常に普遍的な話を描いていて、中々おもしろくはある。ジョン・サヴェジが好きだとレーニナに迫ったのに、逆にレーニナが積極的になると「この売女!」と罵り続ける所なんか、青臭い青春小説だし。ただ、序盤から主人公であったバーナード・マルクスは、主人公の立場をズルズルとジョン・サヴェジに取られ、最終的にスッ~と何時の間にか退場して全然印象に残らなかったり、ジョン・サヴェジも喋ればシェイクスピアの作品から引用しまくる、非常に面倒臭く、鼻に付くだけの純粋坊やだったりして、人物設定や持って行き方が非常に微妙なおもしろく無さ。それにもう一人の主人公ヘルムホルツ・ワトキンスは、自分が頭良過ぎて社会から浮いているという、誰が共感するんだ…という設定で、物語的にも別に必要の無い人物で微妙な存在。レーニナを巡るバーナード・マルクスとジョン・サヴェジの三角関係の様な恋愛劇も特に盛り上がらせる事もなく、何時の間にか尻すぼんでいたし。

社会批判のディストピアSFとしても、いまいちピンと来ないのは時代性か。当時のイギリスの階級制度、機械化による労働の変化、第一次世界大戦後の不安定な社会等の皮肉という事は分かるけれど、特定の仕事にしか対応出来ない人間を極端に大勢作り出す事が効率的な様に見えて、仕事内容が変わった時には極端に大きく無駄が出てしまうとか、人が多ければ揉め事が起こり易くなるのだから人を減らして機械化した方が良いのでは?とか思ってしまい、どうにも煮詰まっていない設定が多過ぎて、著者が描きたい事が先行し過ぎでSF設定が上手く機能していない。それに、変化は少ないけれど病気や死、不安等が極端に少なくなり、娯楽も本人達が満足している中で、病気になったり社会を不安定にさせる犯罪や戦争がある自由の方が素晴らしいんだ!と言うのもいまいちピンと来ない。管理社会・監視社会の恐怖を描く意図は分かるにしても、この世界はこの後の時代に描かれたり、実際あった現在思う様な管理社会・監視社会よりも全然緩い世界なので、ピンと来ないのだと思う。
それにこの世界では「フォード紀元」という年号を使い、自動車産業の変革者ヘンリー・フォードを尊敬する社会なのだけれど、当時はフォードは非常に革命的な人物だったかもしれないけれど、今「フォード」と言えば単に一自動車会社で、「フォード紀元」とかやり過ぎ感は強い。まあ、これは当時の感覚がないとさっぱり分からない所か。
それに、社会批判の割に人間に対する洞察が非常に温い。この世界では、子供は壜から生まれるので親や家族という概念が無い為、自由恋愛・フリーセックス状態なのに、性欲ほとばしっての妊娠は無く、全ての人間が完全に避妊出来ていたり、男女間の揉め事が全然起こらない。個人間で一番恋愛が揉める原因じゃあないの?それに、娯楽も数が限られているけれど、意外と皆満足している。なのに、社会に従順にする為の洗脳や教育は大して描かれず、遺伝子操作もしていないのに大人しいのは何なのだろう?欲望は何処までも肥大し、それを満足させようと社会も肥大して行っているのに、この温い世界と人々は何なのだろう?

結局時代性が強過ぎ、今読んでしまうと古めかしさを感じてしまう「古典SF」。SF部分だけでなく小説としても回りくどい描写や何度も同じ事を繰り返している様なまどろっこしい展開、本来なら一番共感を呼ばなくてはならない主人公のジョン・サヴェジは話す度に鼻に付き、うっとおしい人物になってしまい、どの要素も上手く機能していない感じ。
どうにも読んでいても乗れずに面倒臭くなり飛ばしてしまったり、逆に途切れ途切れで読み進め、読み終えるまで結構時間かかった。
 
 

関連:デモリションマン

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