ライフ・オブ・デビッド・ゲイル
2012年08月11日 土曜日ケヴィン・スペイシー、ケイト・ウィンスレット共演の映画「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル(The Life of David Gale)」。
四日後に死刑が執行される死刑囚の取材に、彼自身から指名された女性記者が行く事となり、彼の話を聞いて行く内に起こった事が見え始める。死刑制度反対のデビッド・ゲイルが死刑囚になり、彼の人生から死刑制度を考えさせる…はずだったはずのサスペンス映画。
終始重い展開なのだけれど、サスペンス映画としても、死刑制度を考えさせる社会派の映画としても、微妙過ぎる。この映画、現実にある死刑制度に対する人々の、現実的な考えや行動を描いているかと言ったら、全然違う。サスペンス映画のトリックやネタとして死刑制度を使っているだけの、至ってフィクションなサスペンス映画。
サスペンス映画としては、死刑や冤罪を振っておいて死刑囚がわざわざ記者を呼び寄せて身の上話を話しているのでどんな展開になるかは予想が付くし、早い段階の回想で何が目的なのかは分かってしまうしで、サスペンスとしての意外性は余り無い。それに「デビッド・ゲイルの人生」という題名なのでデビッド・ゲイルのこれまでが出て来るのは分かるけれど、始めは死刑囚の取材からの事実はどうなんだという緊張ある所から始まっているのに、その後の彼の人生になると急にどうでもいい話になり、退屈で一気に集中力が切れ、調子を削ぐし、後半の事件の解明になると普通の犯罪モノになりそれまでの雰囲気と違ってしまうしで、つまずく様な流れで非常に構成が悪い。
社会派映画としても、前半は良いとしても、後半のだからの結論がそれでは無茶し過ぎ、ファンタジー性を帯びてしまい、死刑制度を深く考えさせるには至らず、サスペンスの仕掛けを、それも大した事無い仕掛けを見せるだけの映画になってしまう。主張としても、死刑囚は出て来るけれど、賛成派の主張や、何より被害者や宗教関係者は一切出て来ず、死刑制度批判の一方的な主張。内容も死刑制度反対に入れ込み過ぎて、自分達の主張を通す為に冤罪と死刑の理論も崩壊、無茶苦茶で、頭のおかしくなった人々を描いていて、最早死刑制度反対派に対する相当皮肉的な批判映画になっている。思いつめた人間は自分の意見を通す為なら何でもするし、それが正しいと言う、ある意味ホラー。
この映画で描かれる題材の一つとして、都会と田舎の違いがある。記者のケイト・ウィンスレットはニューヨークでバリバリ働く女性で、取材先はテキサス州の刑務所。感覚的に都会の方が日本でも分かり易い社会の一方、田舎は彼等アメリカ人でも戸惑う別世界の部分がある。閉鎖的な村社会で、噂がその人の致命傷となり、何か陰湿な隠し事や、事なかれ主義が蔓延っている様な世界。やたらと教会と刑務所が多いという、信仰は強いのに犯罪も多いという皮肉な状況。所謂南部の異質性と死刑制度の関係性を描こうとはしているけれど、これも実は落ちへのミスディレクションでしかなかったりする。
それに、デビッド・ゲイルがリベラルな大学教授というのもあるけれど、途中で「連続殺人犯の73%は共和党支持者」とか、死刑制度の賛成派は保守派なんだけれど、一方で保守派は強いキリスト教信者でもあると、結構保守派をくさす。しかし見終われば、リベラル派って相当ヤバいと、リベラルの方をくさしているのだから、結局ヤバい人間はヤバいという普通な所に落ち着いてしまうのも何だかな…。
ケヴィン・スペイシーは地味で、何時も以上に普通の中年。どういった人間なのか掴み所が無いおっさんを演じさせたら、流石に上手い。
ケイト・ウィンスレットは何だか分厚い。見た目も、演技も。どっしり構え、若いのに歳行っている感じ。このケイト・ウィンスレットを見ていると、マドンナを思い浮かべてしまった。
前半の社会派の顔した展開をしている分、その頭で真面目に見ていると終盤のサスペンス映画にする為だけの振りだった事にグッタリしてしまう。前半で、アメリカの死刑制度の賛否は保守やリベラルの違いによる所があり、日本ではそこでは判断が付き難いとか、地域の社会性だの、宗教だのと考えていた自分が馬鹿らしくなり、こんな映画でそんな事思ってしまった自分が恥ずかしくなって来る。社会派映画したかったら、下手に観客を騙そうとする為のトリックでなんか使わず、ちゃんと社会派すべきで、しょうもないサスペンス映画にしちゃダメ。
☆★★★★