スライディング・ドア

2011年11月09日 水曜日

地下鉄に乗った場合と乗れなかった場合、そのちょっとした事がその後の人生にどう影響して行くのかを描いた映画「スライディング・ドア(Sliding Doors) 」。

この手の「可能性の現在・パラレルワールド」を扱うのは、それによって批判や皮肉を描こうとするSFのお得意の分野なのだけれど、この映画は恋愛映画。主人公のグウィネス・パルトローが同じだけど別の二人の自分を上手く演じている。方や浮気をはっきりとは気付かず、打算的に生きる疲れた表情。方やきっぱりと断ち切り、新たな人生を始めた晴々とした表情。髪型だけでなく、その表情からも違いが見て取れる様にしている。でも、主人公はどちらも不幸な境遇。楽しい時もあるけれど、結局は男に振り回される。まあ、恋愛映画だからすんなり行ったら意味が無い訳であって、途中は必ずグダグダするのだけれど。そのグダグダするダメ男の元彼氏がおもしろい。あからさまな慌てっぷりに、あっちもこっちもの優柔不断ぶり炸裂。どうしようもない男で一人でコメディリリーフを担当している。本当に冴えない男で、何でグウィネス・パルトローの様な美人が惹きつけられるのか分からず。もう一人の男性、ハムナプトラの陽気な兄ちゃんでお馴染みジョン・ハナーもかっこ良い訳ではないのだけれど。美男美女の綺麗な出来過ぎた恋愛物語じゃあないから親身になるし、見てられるのだろう。

分かれた現在の同じ時を交互に見せる演出、編集は良く出来ている。もしもの別々の現実を繋げ一つの場面で見せたり、出会わなかった場合の近くにいるのにすれ違うのを見せたりと、脚本的にも画面の構図的にも良く練られて作られている。一瞬どちらの話かと迷ったりするけれど、「成程。こういう繋がりなのねん。」と感心、歓心して見れる。
ただ、題名にもなっている「スライディング・ドア」の必然性や、もっとドアが話の重要な部分に絡んで来ても良いとは思うのだけれど。ドアはきっかけの分岐位で、題名だけに互いの別の現実の話が近づいて影響し合い、でもスライディングしてずれが起こる様な事を期待してしまっていた。あと、最後の辺りはちょっと最後に持って行くためにやり過ぎかなとも。
それとモンティ・パイソンの「スペイン宗教裁判押し」は一体何故何だろう?この映画の内容にかけて、突然不意に現れるという意味なのか、三つ、いや四つと増え、やり直しをするという意味なのか、柔らかいクッションで痛めつけるという意味なのか?

二つの可能性の現実を同時に見せるという方法はおもしろいし、映像的にも演出的にも良く出来ていてなかなか楽しい映画なのだけれど、話は見終わると何だか爽やかかな、良い話かなと思うのに、良く考えると嫌な話ではある。でも、映画としても、恋愛映画としても良く出来ている。

☆☆☆☆★

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