SUPER8/スーパーエイト

2016年07月31日 日曜日

J・J・エイブラムス製作・監督・脚本、スティーヴン・スピルバーグ製作、ジョエル・コートニー主演の2011年のアメリカ映画「SUPER8/スーパーエイト(Super 8)」。

1979年、ジョー・ラムは母親を亡くしたが町の友人達と自主映画を撮り続けていた。
夜、ジョー・ラム達は町の駅で映画の撮影をしていると列車が通過。しかし、その列車の前方に自動車が追突。目の前で列車が脱線し大事故となった。
その事故を引き起こした自動車に乗っていたのは学校の先生で、彼は「この事は誰にも喋るな!」と警告し、そこに軍が現れ何かを捜索し始めたので、ジョー・ラム達は逃げ出した。
その次の日から町では停電が頻発し、飼い犬達がいなくなり、行方不明者も現れた。

J・J・エイブラムスって、大きくぶち上げるやり方は非常に上手いけれど、実際に映画を見ると物足りないと言うか、常に中身がスカスカして、見終わった後に満足感や爽快感が全然湧いて来ない映画ばかりの印象があるけれど、これもそう。
スティーヴン・スピルバーグと組んで、これまでのスティーヴン・スピルバーグ的な映画を目指しているのは分かるけれど、スティーヴン・スピルバーグの様に心を鷲掴みにする程の魅力も無いし、やっぱり展開や演出が微妙過ぎる。

この映画の題名が「Super 8」で、そのスーパー8mmフィルムで映画を撮っているのだから、撮影したフィルムに何か奇妙な者が映っている事を見付け、そこからドンドンと不可思議な事が起こって行くのなら分かるのに、そのフィルムに何かか映っているというのは中盤で出して来て、それよりも早く、結構序盤で怪物がいますよ…と出してしまえば、見ている方としては「何?何?」のワクワクで引っ張られずに、「どうせ、その怪物でしょ…」とサスペンスとして盛り上がりに欠けてしまう。
それにこの展開だと子供達のフィルムの存在は大きくなく、何だったら映っている必要も無く、「Super 8」という題名にする意味も無くなるし。
軍人達がフィルムの箱を見付けた描写があったので、てっきりそこから子供達と軍との追い駆け合いが始まるのかと思っていたのに、あの場面って、本当にただフィルムの箱を見付けて拾っただけだったのか。…だったら、別にいらないよね?

その怪物にしても、今更「墜落した宇宙船に乗っていた宇宙人を長らく監禁していた」と言う、もう使い古され、擦り倒されたネタを2011年に使うとは思いもしなかった。まだ、この映画が本当に1979年の映画なら分かるネタだけれど、流石に1979年を題材にした2011年の映画と言えども、この展開は古臭過ぎてワクワク感が微塵も無かった。

それに、ジョー・ラムを中心とした子供達の話が軸だったのに、何時の間にかジョー・ラムの父親の保安官が主人公になり、彼が町の謎を探って行くという構成になると子供達の青春話だったのがどっかに行ってしまい、最早何を描きたいのかがブレブレになってしまっている様な気がしてならなかった。
その父親も終盤ではやっぱり子供達が主人公となるので、それまであった存在感は急に無くなり、最後の親子で抱き合う場面も、わざわざ一番の現場にまでやって来て抱き合っていて感動の見せ場をわざわざ作った感が一杯で、押し付け感が凄くて白けたし。

子供達の冒険譚としても、中盤まで映画を撮るだけで冒険らしくはなく、終盤に来て突如目の前で人が殺されたり、仲間の足が折れたり、戦場と化した町を走り抜けたりと、終盤に閉店売り尽くしの様に一気に捨て値で大量に盛り込んでしまい、とにかく最後に詰め込めば盛り上がるでしょ!的な安っぽさしかなかったし。

主人公の母親の死に関しても、結局何で母親の死を乗り越えられたのかがさっぱり。
人をバンバン殺しまくり、町を破壊しまくった凶悪な宇宙人と心が通じ、勝手に宇宙に帰って行ったので母親の死も乗り越えました…って、何?
そもそもこの母親の死の話って、主人公ジョーと彼の父親とアリスとその父親で解決する問題じゃあないの?

宇宙人もあれだけバンバン人殺しておいて、登場人物達に「彼は帰りたいだけ!」と言われても、宇宙人が被害者で本当は良い奴には思えないし。
例えば、残酷な連続殺人犯が子供の時から虐待を受け不運な人生だったけれど、ただ故郷に帰りたかっただけで、故郷に帰れてめでたしめでたし…とは普通ならんでしょ。
なのに、この映画の描き方の感じでは故郷に帰って行ってめでたしめでたし…なんだよなぁ。無理矢理良い話にしようとはしているけれど全然心も温まらないし、感動も起こらないし、最後の場面はどう見たら良いのかさっぱり分からない…。
このままの展開で補足も無ければ、多分あの宇宙人、故郷に帰り、仲間に地球での出来事話して大軍で地球を侵略しに来そうだし。

それに宇宙人が触れて来たので彼の考えが分かった、心が通じ合ったという展開の安っぽさ、都合の良さ、しょっぱさったらなかったしなぁ…。
目の前でバリバリ人間を食っている宇宙人を見ておきながら、怖がらず同情してしまう主人公は子供だとしても相当いかれてる。まだ人を襲ったライオンに対し、何年もそのライオンと関係のある動物学者や飼育員が「大丈夫」となだめるなら分かるけれど、主人公がどうしてそこまで人を殺しまくり、食べまくっている宇宙人に共感しているのかが特に共感出来る設定や話も出て来ないので分かりも出来ない。
この宇宙人に対する展開や設定のただ都合の良過ぎる適当さったら、ありゃしない。

序盤の列車の脱線大爆発も良く考えると別にいらないんだよな。
あれだけ高速で走っていた列車の先頭車両に自動車が正面衝突しただけで後続車両が次々とあちらこちらに跳ねまくるのもやり過ぎだけれど、結果宇宙人が逃げ出しましたというだけの事で、演出や展開上何であれだけ派手な爆破が必要なのかもよく分からない。
映画内では一切描かれていなかったけれど、あれだけ危険で重要な宇宙人を移送するにあたって、相当厳重な警戒態勢が取られているはずで、列車にも多くの兵士や装置が乗っていて、それを全員全部殺害破壊する為にはあれだけの大事故にしないと行けなかったのかなぁ…?と思うけれど、列車の事故で兵士の死体とか血の跡等は一切無かったから、あの列車には誰も乗っていなかった様だし…。
この結局必要の無いハッタリ染みた派手さが好きになれない。

あと、J・J・エイブラムスの自分さらしさの特徴として、やたらとレンズフレアを使っているけれど、やっぱり見難い。
特にこの映画内で映画を撮っているという内容だと、主人公達の映画のフィルムにレンズフレアが映るなら映画と言う強調や象徴として分かるのだけれど、本編の方にレンズフレアが入ってしまうと本来映画内では現実である部分にレンズフレアが存在しているので、現実の作り物感、嘘でしかない感が強調されてしまって意味無いと思うのだけれど。

演出も脚本もおもしろくはなかったけれど、子役達は非常に良かった。主人公のジョエル・コートニーは優等生的主人公でそれ程でもなかったけれど、周りの友人達がまるでベテランの様に濃いい演技と存在感があって、役柄的にも大人達を喰っていた。
特に監督をしていたチャールズ役のライリー・グリフィスなんか、もうおっさん俳優にしか見えなかったしなぁ。

この映画、J・J・エイブラムスらしい悪さが一杯。大きくぶち上げる割に徐々に尻すぼみ。色々しているけれど散漫で、結局何処に絞って見せたいのかがいまいちはっきりしない。粗が一杯あるけれど、そこは気にせず、とにかく強引に締めくくってしまう等、J・J・エイブラムスの映画って、軸が見えずに外見が派手なだけで、壮大な張りぼて感で一杯。

☆★★★★

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