100分de名著 – 歎異抄

2016年04月30日 土曜日

最近は「100分de名著」というよりも、「100分de自己啓発本」になっている感じがして、以前は楽しみに見ていたのに、今では伊集院光が何言うのかな?しか興味が無く、流し見、早送りが増えてしまった「100分de名著」。
2015年の3月なんか、司馬遼太郎スペシャルと銘打って毎回違う本を取り上げてしまい、最早「100分de名著」でもなかったし…。

2016年度版になっての一回目は唯円の「歎異抄」だったけれど、これも終始おもしろくなかったなぁ。おもしろくないと感じたのは「歎異抄」ね。
2015年の4月にブッダの「最期のことば」をやっているだけに、それを見てから「歎異抄」見ると、「歎異抄」は末期のこねくり回し感しか感じられず、全然入って来なかった。他の仏教にも感じる「それってゴータマ・シッダッタが言ってんの?」が原因。

「100分de名著」の「最期のことば」を見たら、「ふ~ん、一番初めの仏教って宗教と言うよりも人生哲学や生活態度の規範だったのか。」で分かるけれど、急に「歎異抄」の時代になると念仏だの、阿弥陀だののゴータマ・シッダッタが言ってんのか分からない夢想系な宗教教義が出て来て、「歎異抄」で色々言ってはいるけれど、そもそも前提としてそれ何なん?はほったらかしで置いてけ堀。
「歎異抄」って、初期仏教からの小乗仏教と大乗仏教の分裂からの様々な大乗仏教の中の浄土真宗に対しての「歎異抄」という部分を分からないとすんなりと理解出来ない。
言ったら大元の裏の裏の裏の…みたいな、こねくり回してこねくり回したモノに対するアンチテーゼなので、今回の「100分de名著」の様に「そこら辺の前提分かってますよね!」で進められても、「ゴータマ・シッダッタは念仏唱えろって言ってたの?阿弥陀が救うなんて言ってたの?後の人が仏教に勝手に付け足して付け足して、それを自分の気持ち良い様に解釈したのを更にご都合主義的にこねくり回しただけじゃないの?」という疑問に対して何も答えは無く、つまづくつまづく。
例えば、アメリカの連続テレビドラマでシーズン10を超えてシーズン1のレギュラーが誰一人いなくなり、シーズン1でやっていた事とも全く別の話になっているのに、シーズン1を少し見てから行き成りシーズン13辺りから本格的に見出した様なモノ。一話一話は分かるけれど、全体思うと「それって…??」ばっかりで全然話に乗って行けない感じ。

まあ、仏教の歴史を学問的に見た時には「歎異抄」はおもしろいのかもしれないけれど、思想書としては全然興味が湧かなかったし、やっぱり最近の「100分de名著」は「100分de自己啓発本」だなと感じてしまった。
フランツ・カフカの「変身」やドストエフスキーの「罪と罰」の様な、分かり難く普遍性の無いと思われてしまう様な話を個人の普遍性へと解説して行くのとか、デュマの「モンテ・クリスト伯」とかトルストイの「戦争と平和」様な有名ではあるけれど大長編で読むとしても取っ掛かりが無い様な本を時代背景を含めて解説する様な、これぞ「100分de名著」というおもしろさが最近全く無いよなぁ…。

番組自体は新年度になって少々変わった部分も。
話を聞く人は今まで通り伊集院光だけれど、司会進行が三年程やっていた武内陶子アナウンサーから礒野佑子アナウンサーに交代。
武内陶子アナウンサーを見慣れていた事もあるんだけれど、武内陶子アナウンサーが結構ざっくばらんな感じで女性目線的な話も出て来ておもしろく見れたけれど、礒野佑子アナウンサーは如何にもNHK的にキッチリ番組を進めてつまらないバラエティにしてしまう種類の人にしか思えず、何で交代したんだろう?
「ブラタモリ」もそうだけれど、折角良い感じで慣れて来た女性アナウンサーをさっと交代させてしまう番組の顔を作らない様なつまんない交代をしてしまうよなぁ。NHKって民放以上に女性アナウンサーなんて幾らでも置き換えて問題無しな扱いとしか考えてないんだろうか?

あと、「100分de名著」の大嫌いで早送りしてしまう部分である、役者、特に若手役者の名著の朗読は今回は無し。
かもめんたるの岩崎う大が唯円役で進めていて、更に終盤から槙尾ユウスケも僧侶役で登場。
コントでは変態的役が多い岩崎う大が何で坊主役なのかで配役が不思議だった。流石に槙尾ユウスケは女装は無しか。

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