アジャストメント

2015年12月16日 水曜日

ジョージ・ノルフィ製作・監督・脚本、マット・デイモン主演の2011年の映画「アジャストメント(The Adjustment Bureau)」。
フィリップ・K・ディックの短編小説「調整班(Adjustment Team)」が原作。

上院議員選挙を控えた下院議員のデヴィッド・ノリスは下半身を露出した写真を取られ落選。その敗戦会見の前に偶々男子トイレにいたエリース・セラスと出会い、別れるが、デヴィッド・ノリスは彼女が気になり続けていた。新たな職を見つけたデヴィッド・ノリスは通勤のバスの中でエリース・セラスと偶然出会うが、それを知ったかの様な謎の男達がデヴィッド・ノリスを付け回しており、デヴィッド・ノリスが職場に付くとそこの人々は時間が止まったかの様に動かず、謎の人々が彼らに何かをしており、それを見たデヴィッド・ノリスは拉致されてしまった。

この映画、原作がフィリップ・K・ディックだからという情報だけで見てみたのだけれど、フィリップ・K・ディックらしい所は所々にあるにはあるが、完全にファンタジーの中の恋愛話で、見終わると全然フィリップ・K・ディックらしくない。後から原作となっている小説の「調整班」を読んでみたら、全然内容が違った。

映画としては、序盤は偶然の恋と、選挙に関してなのか、主人公が知らない裏で何かしらの陰謀がうごめいているという非常に王道なサスペンスの展開で結構おもしろかったのに、調整班達が現れてからは全然SF的な説明も無いまま、全てが謎のファンタジーで進んで行く為に全然話が入って来なかった。
デヴィッド・ノリスを追い駆ける男がちょっと手を振るとバスの中にいるデヴィッド・ノリスがコーヒーこぼすとか、帽子を被ればそこら辺りにあるドアが違うドアに繋がっているとか、どうやってか自動車事故を起こせるとか、水に囲まれていたり雨が降っていると追跡は出来ないとか、不思議な事物で引っ張るサスペンスなのにそれらの「何でそうなるのか」の観客に対する説明は一切無く、完全に魔法として放り投げている。その一方で止まった人々の記憶や考えを調整しているのは何かしらの機械装置だったりと、そこだけは急にSFしていて重要な部分がぶれぶれ。単に製作・監督・脚本を一人でやってしまったジョージ・ノルフィのやりたい事だけをやってしまい、後は投げっ放しジャーマンという悪い部分しか見えて来ない。

話の骨子も、要は「運命的だと思っている恋愛は、予め誰かに決められた運命を越え、自由となる」という非常に安っぽい運命論に加え、謎の調整局も「人類は未熟で好き勝手にさせられないから我々が導いているのだ」という、これまた「何十年前のSFだよ!?」という非常に安っぽいモノにしてしまっていて、序盤の「何が起きているのか?起こって行くのか?」のワクワク感から一転、ガッカリ感ばかりが先行してしまう。

恋愛部分は、男子トイレで出会って速攻でキスしてしまうという訳の分からない幕開けから、お互いが数年も会わずにいたのに結構好意的に接するのに、その間の両人の想いや結婚を控えたエリース・セラスの想いとかが全然描かれなかったりするのに引っ付いてしまう二人では描写は全然足りない。映画内では運命は越える事が出来、変えられるけれど、登場人物達の感情や想いの描写が少ないので何でそうなのか?の理由が見えて来ず、ただ脚本の枠や展開通りに動いている駒としての人物という、まさに決まり切った運命の通りに動いているだけで、運命を全然越えられていない人物になってしまっている足りない脚本と描写。
それに運命は変えられるという事を描いているはずなのに、この二人は実は本来くっ付くはずだったのが変更されたと言う結局運命通り収まっただけという話が出て来てしまい、運命の描き方もブレまくっている。
謎の調整局は運命だのと言っているけれど、結局は一人の議長が考える思い通りに人々を動かしたいだけで、それも何だか訳の分からない愛だのの行動であっさり変更されてしまう緩さがあり、これもただ「愛は勝つ!」という結論に押し込む為だけの脚本の都合でしかない。
まあ調整局関連のお座なりさ、適当に謎をまぶしておいての投げっ放し、放りっぱなしさと言ったらない。

これらがジョージ・ノルフィの好き放題しただけという事に尽きるのは、原作の「調整班」を読めば分かる。「調整班」とこの映画はほぼ別物。
小説での主人公は不動産会社に勤める既婚者の普通のおっさんで、愛がどうのこうのという話では全然無い。最後に起きた妻に対する事の反応を見れば、この映画のデヴィッド・ノリスとは真逆だし、笑えてしまう。
話自体が、自分の会社内が全て灰色になり崩れて行き、戻ってみると元には戻っているけれど何かが違っているという、自分は絶対的に自分だけれど周りの現実に感じてしまう何らかの違和感から書かれたであろう非常にフィリップ・K・ディック的な話を発展して、ちょっと黒い笑かしも入れたモノなのに、この映画では誰かが現実に手を加えているという所だけを取り出して、後は好き放題してしまった為にグダグダした感じになってしまっている。
小説と映画で同じと言えば、主人公に何かのきっかけを与える役割だった人物が寝落ちしてしまったという所だけ。それも小説では人ではなく犬だし。

映画でも始めから違和感しか感じなかったのは、この設定の主人公を演じているのがマット・デイモンだと言う事。
まだ、マット・デイモンが若き国会議員というのはいまいちしっくり来ないけれど良いとはして、そんな若き政治家という設定で、しかもマット・デイモンが演じているのに、スラム街出身で喧嘩に明け暮れ、選挙期間中なのに何でか知らないけれどチンコ出してしまう主人公なんて、設定としてもピンと来ないし、マット・デイモンが演じても全然はまっていない。話の展開上もこの過去の設定とか、チンコ出す馬鹿な奴という設定なんて全然いらんかった様な気がするんだけれど。

この映画、折角の調整局の話やガジェットは説明も無いままで投げっ放しにして面白味も無く、見ていても全てが脚本にとって都合が良いだけの展開でしかなく、恋愛話も結構唐突な部分が多く描写が足りないし、味方してくれる調整員の男の感情もいまいちはっきりしないままで描写が足りず、全てに置いて描写が不十分過ぎる。時間を止めて意識を変えるという部分なんて、これで周りの人間が「何言っての?」とか言うやり取りで既に敵に何かされているという恐怖や戸惑いを描き、何度も主人公への壁とする事が出来るのに、始めに記憶操作を行なったには行ったけれど使い捨てただけでこの設定も活かしてもいないし、やっぱり製作・監督・脚本で好き放題出来たジョージ・ノルフィの全てにおいての緩さしかない。

☆☆★★★

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