猿の惑星: 新世紀
2026年10月28日 水曜日マット・リーヴス監督、アンディ・サーキス主演の2014年のアメリカ映画「猿の惑星: 新世紀(Dawn of the Planet of the Apes)」
以前の映画とは関係が無く、「猿の惑星: 創世記」から始まった新たなシリーズの二作目。
前作から十年後。
人間が開発した新薬によって知能が高まった猿達はロサンゼルスの森で群生地を作り、シーザーがその群れの指導者となっていた。
人間が開発した新薬は猿達を変えたが、一方で人間にとっては致死的なウイルスとなって全世界に広がり、大勢が死亡して人間の文明は滅びかけており、ロサンゼルスではウイルスに対する免疫を持った少数の人間が生き延びていた。
ロサンゼルスの町では燃料が間もなく尽きてしまうので森の中にあるダムでの水力発電所を稼働させようとマルコム以下数名が森へと送られた。
マルコム一行は道中で猿に出会い、一人が恐れて猿を銃で撃ってしまった。
それを知ったシーザー達は人間が存在している事を知り、大軍を率いてロサンゼルスの町まで押し寄せ、猿達に関わるなと警告を出した。
しかし、電力を必要としていた為マルコムは再び森へと向かい、シーザーと交渉を行ってダムの再稼働の合意を取り付けた。
ロサンゼルスの町では猿達に対する防御策として武器を集めていたが、シーザーが送ったコバ一行がそれを見付け、人間から動物実験を受けていた恨みがあるコバは人間は危険だとシーザーに伝えようとするが受け入れられなかった。
そこでコバはシーザーを銃で撃ち、それが人間の仕業だとして猿達を蜂起させてロサンゼルスの町に攻撃を仕掛けた。
撃たれたシーザーだったが何とか生きており、マルコムらに助けられてコバを止める為に町へと向かった。
Amazon プライムビデオで猿の惑星シリーズが一気に配信終了となる予定だったので、2010年代以降の映画を見ていないので見たいと思い、だったら以前の1970年代の初めのシリーズを見てから見てみようと思ったものの、何故か一作目だけが見放題には入っておらず、一作目は以前見た事があったので、しょうがないので二作目から見始めて五作目まで見終わり、「PLANET OF THE APES/猿の惑星」も見終わってのやっとの新シリーズの一作目「猿の惑星: 創世記」を見たので続けて続編のこの映画も見てみた。
やっぱりこのシリーズの映画に興味が持てず、つまらないと思ってしまうのは、一番大事な「猿の惑星」本編が無いまま、ずっと前日譚だけを見せられているから。
「猿の惑星: 創世記」を見た時も思ったのは、「猿の惑星(Planet of the Apes)」と銘打っているのだから猿達が人間の様な社会を形成して人間を支配している中に、本来なら普通の人間が異質な存在として突如現れた構造が抜群におもしろく、その中で色々な事を見せて行くのを期待するのに、このシリーズはその基本となる本編が無いのに前日譚ばかりを見せているので「何を見せられているのだろう?」と思ってしまう。
異質な猿の世界の「猿の惑星」があってこそ、その世界はどうやって出来たのかを興味を持って見れるのに、どういった「猿の惑星」なのか分からない世界に向けて土台だけを作り上げる土台工事だけでは興味は湧かない。
一作目よりは猿内部の対立があったりして話の展開はあるものの長々と見せるので間延びしているし、ただ少し知恵を持った猿達の内輪揉めを延々と見せられても興味が無いので退屈。
旧作の「猿の惑星・征服」や「最後の猿の惑星」でも「猿の惑星」があっての前日譚でもシーザーことマイロに大して興味が湧かなかったのでおもしろいとは思わなかったし、わたしは「猿の惑星」には興味はあるけれど、その前史での猿を率いるシーザーの話は興味が無いのだと思う。
それに、この猿側の話って結局人間と変わらないという話になって行くので見ていると「だったら別に猿でやらなくてもよいのでは?」と思い始めて、これって人間でも、人間以外でも、ある意味何でも出来る話をわざわざ「猿の惑星」として一作の映画としてする意味はあるのか?と思い始めてしまった。
これも「猿の惑星」があったならば、ちゃんと自分達の社会を作っていた猿達もこんな風だったんだという事を見せるという部分で意味はあるのだけれど、自分達の資源やエナジーが足りないので他人の住んでいる所に乗り込んで行って上手く行きそうだったけれど、どちらの側にも不安や不信に思う者や、強行的、攻撃的な者がいて、誰かを守ると言うが自分自身の気持ち良さの為に争いが起きて周りの者達が巻き込まれて死んで行くなんて古今東西で起こる小競り合いから大規模な戦争までの話で、これを猿も変わらないと描く意図は分かるものの、そんな事人間だけでなく現実の猿でも他の動物でもあちこちで起こっている事で、それを「猿の惑星」の本編を描かずにわざわざこの映画で見せられてもなぁ…となってしまった。
他の「猿の惑星」以外の色々な映画でもそうなんだけれど、揉めないといけない、争いが起こらなければいけないという展開上、お互いに話し合いが出来るのに話し合いをしない。詳しく説明しないというよくある脚本上の展開も大分飽きてしまっている。
これもコバみたいに話をしない、しない事で自分の思い通りにするという、現実の「あいつは~だ!」で自分の絶対的正義だけで他人を攻撃する人間の比喩と言えばいいのだろうけれど、猿も人間も自分達は賢いと思っているのに自分達も相手も壊滅的な損害が出るかもしれないのにそこは考えないという頭の悪い感じしかして来ないのも何だかなぁと思ってしまう所。
それも現実を皮肉的に扱っている意図があるのかもしれないけれど。
「Ape not kill apes」も猿は人間とは違うと言う高尚な信仰として出て来て、それが殺さない事自体が偉く、そういう考えと行動をする猿が人間より優れているという事かと思ったら、初めの時点で鹿や熊を殺していて殺す事は別に構わないらしく、自分達の共同体で揉め事を収め、共同体を壊さない、共同体を運営する為の決まりなので決まりとしては人間としている事は大して変わらず、より猿達が人間臭くなって意図としてはそれはそれで良いの?とは思った。
「Ape not kill apes」だと初めは良いけれど問題が出た時には対応出来ないんじゃない?と思っていたら、正にコバがそうなり、最後にはシーザーは「お前はApeではない」と言ってコバを殺してしまい、「Ape not kill apes」では対応出来なかったので絶対的な決まりさえ指導者が都合良く自分の解釈で弄ってしまい、これは高尚な信仰や絶対的な掟も権力者や力を持った者が自由にいじくりまわして自分の思い通りに出来るという現実の皮肉なのかしらん?と思ったし、シーザーが自分の決めた事さえ守る気が無くなった独裁者として立って行くのに更に恐怖が増した。
あと、場面によって猿の数が都合良く増減するのも白けてしまった。
あの集落にいた猿の数に比べて、終盤の人間を襲う時の猿の数は多過ぎだし、最後にシーザーの下に集まった猿は戦いの時よりも少なく、何処か見えない別の場所に猿が大量にいたり、何時かの時点で大量の猿達が何かで死んでしまったの?と思ってしまう画面上の数の増減だった。
CGアニメーションでは、本来ならそんな動きをしないだろうと思うのにハリウッドの動物CGはやたらと動かしまくって現実感が無くて白けるというのが変わらずあり、特に今回は猿が中心なのでグニュングニュン動くCGの猿は違和感があるし、やっぱりシーザーの顔の演技がわざとらしくて醒めてしまう。
他の猿は動物に近い顔になっていたけれど、シーザーはほぼ人間と言うか漫画的な顔立ちになっていたし、表情もアンディ・サーキスのモーションキャプチャーそのままなんだと思われて他の猿の中では浮いていて、シーザーの顔の寄りになると急にそこだけアニメーション映画の様に見えてまった。
シーザーは直接薬を投与された猿の子供だから他の猿とは違い表情筋まで変化したという都合の良い設定なのかな?
この映画、野蛮な人間達を理性的だと思っている猿達が支配した「猿の惑星」の世界を先に見せていたなら、それ以前の猿と人間が大して変わらない時代もありましたよ。猿も変わって来たのですよ…と言う話なら見られるけれど、本編が無いままの猿と人間が揉めているだけの前日譚だけを見せられても興味は出て来ず、終始シーザー物語はいいから「猿の惑星」を見せてよ…と思っていた映画でした。
☆★★★★
関連:「続・猿の惑星」をもう一度見てみました。
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「猿の惑星・征服」をもう一度見てみました。
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PLANET OF THE APES/猿の惑星
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