潜水服は蝶の夢を見る

2012年09月22日 土曜日

ジャン=ドミニク・ボビーの小説を原作とする映画「潜水服は蝶の夢を見るLe scaphandre et le papillon)」。

脳溢血で倒れ、聞こえ、見えはするけれど、全身麻痺になってしまった男の話。

目覚めて、何も出来ないけれど、聞こえるし、見えるし、考える事しか出来ない事を知り、絶望、拒否しながらも、皮肉さや妄想を持ちながら生きて行く男性を、非感傷的に描いている。変にお涙頂戴の分かり易い感動の話にしない分重くしないし、主人公は結構スケベなおっさんで、そこの部分でも笑えてしまうし、妄想の具現化でも結構笑えてしまう。
それに家族もいて彼は愛され、友人にも気にかけてもらえるし、更には愛人もいるし、彼に付く言語療法士とも関係は上手く行き、恋愛関係的にまで行き、悲惨さが一切無い。確かに不幸ではあるのだけれど、正直、見て行くとこの主人公が大分恵まれていると感じてしまう。周りから愛され、気にかけられ、瞬きで書いた本は売れるしで、実際の出来事なのにある意味ファンタジーの様な感じも受ける。この主人公の様ではなく、孤独で、ただ時間が過ぎて行き、ただ死んで行くのを待つ方が、心にはもっと響くのだろうけれど、これだと売れる映画でもなくなるか。

話は、主人公の皮肉な性格や、こんな状況でも意外と笑っている様子を描いていて中々良いのだけれど、ただ結構微妙と言うか、盛り上げずに流れてしまう感じの演出がどうもいまいち。動けず、見る事しか出来ず、自分の考える声しか表現出来ないと言う、主人公の一人称視点で始まり、それは効果的に使われ、それが続くにも関わらず、この主人公の第三者視点の姿が早い段階であっさりと普通に出してしまい、行き成り階段を踏み外した様な肩透かし感がある。それにずっと主人公視点で話が進んでいる時は、自分の体に閉じ込められたという閉塞感と恐怖感が、その演出によって現実感があり、見ている方も非常に見入り、入り込むので、中盤辺りで普通な第三者視点に移行すると、それ以降が急に作り物感、嘘モノ感が強くなり、段々と興味が失せて来る。この切り替えは、描く事内容や、映画として見せ続けなくてはいけないという思いもあるだろうしで、難しい所だけれど、全編主人公の一人称視点だけでも良かった気がする。
それと早い段階で潜水服で水に沈められている映像が出て来て、潜水服に閉じ込められていると言う比喩をそのまま見せてしまい、これが効果的なのか、いまいち判断の付き難い所。しかも、何回も入れるので、結構しつこさがある。
途中にクラシック音楽と共に、関係の無い想像を具現化した映像が入っているけれど、これを見ていると何だか物凄く古い映画を見ている感じ。トーキー以前の映画や、1970年代辺りのお洒落感を前に出した様な映画を感じてしまう。
ルルドで主人公が一人で夜道を歩き回り、如何にもなロックな音楽が流れるという、非常に凡庸な演出に「何じゃこりゃ?」と思ったけれど、それをぶった切る編集では見事にニタッとしてしまった。

この映画で「へ~。」と思ったのは、ルルドの町。あの「始めの発見者の女性は、女性の幻影を見たと言ったのに何時の間にか聖母マリアが現れたという事になり、その女性は医者通いだったのに、万病を治す奇跡の泉になってしまった」でお馴染みルルドの泉が、町自体がその奇跡の話で商売している観光都市だった事に関心が行った。伝説や尾ひれが付きまくった話で商売するのは、まあ何処でも同じなのか。

原題は「Le scaphandre et le papillon(潜水服と蝶)」という簡単な題名なのに、この映画の邦題と言うか、原作のエッセイの邦題が、わざわざフィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」と似た様な、でも微妙にずらした「潜水服は蝶の夢を見る」という題名を付けてお洒落感を出している所が、物凄い鼻に付く。

主人公が動けず、聞く事ばかり、考える事ばかりという非常に閉塞的な設定にも関わらず、意外とその重苦しさは無く、意外とさっぱりとしている。ただ、その閉じ込められた世界を描いているのに、演出が時々至って普通な場面を入れ込み、せっかくの世界観を台無しにしている感じが強い。初めは特異な世界に入り込んでいて、おもしろく、興味深く見ていたのに、終り頃から何だか普通な映画の様な気がして来てしまい、尻つぼみな感じがした。

☆☆☆★★

« | »

Trackback URL

Leave a Reply