ノウイング

2010年12月11日 土曜日

カタカナで「ノウイング」と書くと、一瞬意味が分からない文字列になってしまい、発音も「のお・いんぐう」と変な感じになるので「Knowing」と書かれた方がしっくり来る映画「ノウイング」を見た。
 
 
予告編を見た限りでは、「謎の数字が実は予言で、てんやわんやになり、結局は謎が謎のままで不思議を味わうサスペンス。」位に思っていたのだが、これが悪い意味で裏切るトンデモな話だった。
良く思えば、序盤で間延びする程親子関係の説明が長く入るのは結末への伏線になっているのだけれど、それよりも謎の男の登場辺りから何だか雲行きは怪しく感ぜられ、主人のニコラス・ケイジの父親が牧師だと分かり嫌な予感はしていた。「危機に陥り、信仰を取り戻す」という、シャマランの「サイン」みたいな展開が好きじゃあないので、「もしかしたらこれもそうかも?」と危惧していたけれど、ある意味それ以上に行ってしまう展開に。「予言・宇宙・終末・救済・選民思想」等々を見せまくる、宇宙系の新興宗教団体が資金提供して出来上がった映画じゃないだろうかと思える位のそちら系の展開。プレアデスとか、金髪、長身の謎の人物とかはまさにトンデモ本からの引用。そして、一応は「そう思うからそうなるんだよ!」と指摘する人もいるけれど、主要登場人物は大体素直にすっと受け入れる。まあ、予言やらが事実として有りのお話だからそうしないと話が進まないというのはあるのだろうけれど。
結局、導入であり、一番話の根幹にだったはずの「予言」はどっちらけのまま終わる。そんなに回りくどいやり方は、賢いのか、手間かけすぎて間抜けなのか分からない。

「2012」とか、ディザスター映画にキリスト教思想が乗っかったこの手の映画は、見終わっても響かないし、さっぱりピンと来ない。これがサスペンス映画の作りだと結構おもしろいのに。

この手のキリスト教の代替としての宇宙系新興宗教ってアメリカだと結構認知度は高いのかなぁ?だからこの映画が作られ、娯楽として楽しまれたのだろうか?

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