2001年宇宙の旅
2018年08月28日 火曜日スタンリー・キューブリック製作・監督・脚本、アーサー・C・クラーク脚本、キア・デュリア主演の1968年のSF映画「2001年宇宙の旅(2001: A Space Odyssey)」。
アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックでまとめたらしく、アーサー・C・クラークのSF小説「2001年宇宙の旅」は果たして原作となるのか?
人類の誕生に関わったらしいモノリス。それが月面の地中から発見された。
それから18ヶ月後、宇宙船ディスカバリー号は木星へ向けて進んでいた。ディスカバリー号を制御するコンピューターHAL9000の異常を感じた船長と副船長は対策に乗り出そうとするが…。
この映画は、以前見た記憶がある様な…、ない様な…感じで、一度見ようと思って見た時は余りに退屈して序盤で寝てしまった記憶がある。
で、今回改めて見てみたけれど、やっぱり退屈だったし、「色褪せない不朽の名作!!」と言われているけれど、流石に2001年も二十年近くも過ぎ去ってしまい、科学技術や研究が進んだ今に1960年代のSF映画を見ると色褪せている部分も多いし、今更感は強かった。
始まりからして、あの「月と地球と太陽が縦に並び、ツァラトゥストラはかく語りきが流れる」場面は色んなモノでパロディにされているのを頭の片隅に思い出してしまい笑ってしまった。
その後の猿?猿人?がモノリスに触れて道具を使い始め、同族を襲い始める所も、現在ではチンパンジーが器用に道具を使い、その道具を使っている姿を見て子供のチンパンジーが道具の使い方を憶えたり、同じくチンパンジーが集団で違うチンパンジーや集団を襲う事が知られている中でこの場面を見せられてもSFとしての嘘が弱過ぎてしまっている。
その後はモノリスについての話が進んだと思ったら、中盤以降は木星探査の途中のコンピューターと人間の対立という話になって、モノリス話があんまり関係無くなり、物語の分断が起こって興味が続かない。
絶対的なコンピューターが人間に牙を向くってのもSFの題材としてはもう古い。
1960年代当時ならまだ使い古されていない新しい題材なのかもしれないけれど、今だと王道過ぎて使われないし、実際の2001年当時でも「コンピューターって、複雑怪奇にブラックボックス化してしまい、エラーが起こりまくるから危険な道具」だったからなぁ…。
それに何より、アーサー・C・クラークのアイザック・アシモフに対する意識があったのかなかったのかは分からないけれど、HAL9000の設定が変。
普通なら宇宙空間における人間の扱いなら人命が優先されるのに、アジモフのロボット三原則みたいなコンピューターを制限管理する優先事項が無く、簡単に人を殺してしまう。
調査優先の行動で全員人間を殺してしまったら、その後の調査はどうするつもりだったのだろう?
単にHAL9000が自己生存の為に行動したみたいな描き方だけれど、HAL9000が人間の反応に対して人間らしく返すから感情や感覚があるみたいな感じはするけれど、HAL9000に意識や感情がある様な事も無いし。描写が少な過ぎて分かり難いけれど、HAL9000がおかしくなった理由と木星探査と隠されたモノリス調査ってそんなに相反する事なのかしら?
それと、船外活動をする時、何で一々ポッドに乗って外に出てから更にポッドから出る必要性があるのかもよく分からなかった。普通にエアロックから出て行くもんじゃないのかしら?
で、最終的に説明を省いての丸投げで終わって意味不明。
ここの性質が悪いのが、「こちらの手の内は見せました。この後や、彼らがどうなったかはあなた次第」の投げっ放しなら分かるのだけれど、説明すべき必要のある部分の説明を省いて投げっ放しって便利っちゃあ便利。
見ても訳が分からないのでインターネットで調べてみたら、「スターゲイト」だの「スターチャイルド」だの、映画では一切出て来なかった事が書かれていて、それじゃあ分かる訳ない。
わたしが見て思ったのは「色んな出来事があり、自分一人だけで航行を続けている船長がモノリスを見つけ、安堵と不安とで精神がぶっ壊れて、そのまま死んで行く中で自分の老いを思うけれど、宇宙で独りぼっちの中では真面な老いは存在せず、最終的に母なる地球を思い出したのがあれ」だと思った。
最終的に、この「人間の進化と人間外の何らかの存在の干渉」という話もSFの題材としてはやっぱり古く、1960年代、1970年代のSF小説の流れなんだろうなぁ。
話以外にも演出が結構退屈。
やたらと無重力や重力を説明的に見せる同じ様な場面が何度もあり、始めの空中に浮くペンをそのまま取る場面は今見ても素晴らしいとは思ったけれど、その後のグルグル回る中を走ったりだのの場面がしつこい。もっとさらっと見せれば日常の風景として分かるのに、何度も長い事見せると非常に説明臭くなる。
他のスタンリー・キューブリックの映画を見ても思ったけれど、この人の演出結構説明臭い。
この当時の観客に対しては無重力と重力の描写が必要だったし、それを描く事が斬新で映像的な興奮があったのだろうけれど、編集的には飽きる。
特に宇宙空間を行く宇宙船の場面は特に何も無いのに長いし、更に西洋古典音楽がずっと流れているので退屈になり、多分以前はここら辺で寝てしまったのだと思う。
それに、HAL9000をリセットした後の船長の行動とかが一切描かれず、急に木星のモノリスの話に飛ぶ演出や編集も変。
船長以外は全員死亡して、HAL9000に重大な欠陥が出たのに、本部と会議して帰還か続行かの話し合いの場面が一切無く、船長は何の想いを持ってモノリスに近づこうとしていたのかとかも無いので、モノリスの変異以前の段階ですでに置いてけ堀。それ以降のネオンサインの様な壁が流れて、水に絵の具を垂らした墨流しや、地球の陸上の反転映像とかも意味分からず置いてけ堀だし、ここの演出もやっぱり今見ると古臭いし。
他のスタンリー・キューブリックの映画も見たけれど、どれも本当に退屈で眠たくなって来る。
あと、スタンリー・キューブリックの映画って必ず面白顔芸をやって、そこが一番の見所かもしれない。
ただ、手間暇時間をかけて撮影した宇宙船の場面は素晴らしい。今の様に簡単にCGで描いてしまってギュンギュン動き回るのはアクションを主軸に置いている映画なら良いけれど、ハードSFとなると結構嘘臭さが出てしまうから、静かに何も無く飛んで行く宇宙船って正解。
1960年代のSF映画なのでしょうがないと言えばそうなのだけれど、無重力なのにどう見ても重力化で撮影したとしか見えない場面や、月面なのに何故か地球上とほぼ同じな動きだったり、やたらと早くグルグル回って遠心力で人口重力を作る宇宙ステーションや宇宙船は「そんな早いと遠心力が強過ぎて、真面に歩けやしないだろ」とか、「2001年ならワイヤーフレームじゃなくて、ポリゴンだろ!」とか、どうしても当時の技術から来る部分に覚めてしまう所はあるし、服装や船内の装飾とかが1960年代っぽさしかないのはどうしようもない。特に前知識なくこの映画見ても「1960年代?1970年代の映画?」としか思わないだろうし。
この映画、見た目も話もやっぱり1968年の映画。今見てしまうとその時代さを感じるし、この後色々と出たのを知ってしまった上で見ると当時の衝撃はいまいち分からない。特に近未来ハードSFって、当時に見てこそのモノ。
それに話は投げっ放し自体はいいけれど、この投げっ放しのやり方は何かズルく、これで深いとか言われても…だし、こんななおざりで観客が考えなくちゃあいけないとか、スタンリー・キューブリックを崇拝する人だけ付き合えばいい映画なんじゃないかしら。
☆☆★★★
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