殺陣師段平

2013年06月25日 火曜日

瑞穂春海監督、中村鴈治郎、市川雷蔵出演の1962年の映画「殺陣師段平」。
この映画は元々、実在した殺陣師市川段平を基に長谷川幸延が戯曲を書き、それを新国劇が上演。その後1950年に黒澤明が脚本を脚色し、マキノ正博が監督して映画化。更に1955年に同監督で「人生とんぼ返り」としてリメイク映画化。で、この映画が三回目の映画化となっている。

大正時代、歌舞伎とは違う新たな演劇を目指していた新国劇は剣劇に活路を見出そうとしていた。その新国劇には、かつて歌舞伎で殺陣を付けていた初老の市川段平がおり、今度の芝居で自分の殺陣が取り入れられると意気揚々だったが、座長の沢田はもっとリアリズムのある殺陣を求めており、段平は相手にされずに落ち込んでしまう。段平はリアルとは、写実とは何かを理解してはいなかったが、身を挺して殺陣を考えている事を沢田に見せ、新たな上演に殺陣師として殺陣を付ける事になる。そして、殺陣一直線の、殺陣馬鹿の波乱万丈の人生が描かれて行く。

「♪芸の為なら~」の、芸事に突っ走る古い男の人生の話。とにかく、自分の殺陣が採用されれば喜ぶ。受けようが受けまいが自分の殺陣で上演されていれば常に自信満々。逆に採用されなければ、ふて寝。機嫌が悪いと、まるで子供の様なおじいちゃんが、自分の家族を顧みず殺陣に生きる。本人は死にかけているのに、最後の最後まで自分の好きな、人生をかけた殺陣に生きて、死んで行って幸せだったのだろうけれど、直接は何も描かれない奥さんや、最後の最後に明かされる娘の話等、彼の周囲の人間は不幸なまま、何の救いも無く終わってしまい、何が幸せなのかを考えてしまう。段平目線、男性目線で見ると好きな事に突っ走って良い話なのかもしれないけれど、周囲の人や女性目線だと、わがまま気ままな人が好き勝手しまくった話で良い話でもない。まあ、これが芸事に生きた古い男の話なんだろう。

決してはっきりとした結論が出ない様な人生を描いた話以上に目を引くのは、中村鴈治郎と市川雷蔵の二人の役者。
映画に登場する大阪の人々がほとんどそうなのだけれど、中村鴈治郎も今では落語にしか残っていない様なコテコテの大阪弁で、扱い辛いけれど子供の様な人懐っこさがある、妙に可愛げのあるおっさんがすっとはまる。「うわぁ~、大正時代の大阪にこんなおっさん絶対いたはず!」と思わせる、素晴らしい程の役へのはまり様。倒れてからの呂律の回らなさなんて、真に迫る感じ。
市川雷蔵も、時代劇とも他の現代劇とも全く違う見た目で、良い所の坊ちゃんの書生の様な凛々しくもたおやかな感じがあり、登場した時に市川雷蔵と一瞬分からない位。喋ると何時もの市川雷蔵なんだけれど。途中にちょんまげの舞台劇の場面が出て来るけれど、その時との雰囲気の違いは最早別人の様。流石の役作り。
この二人の役作りと演技の素晴らしさで映画へののめり込みが大きいけれど、おもしろいのはこの二人が実際に元々歌舞伎役者という事。この話が歌舞伎の型にはまったモノではない、違う新しいモノを目指して翻弄する人々を描いているけれど、この二人は歌舞伎の世界にいたけれど色々と問題があり映画界へとやって来て、そしてこの様な題材の映画に出ているというのは、不思議な因縁めいたモノを感じて、頭がぼわっ~となって来る。市川雷蔵の来歴はある程度知っていたけれど、中村鴈治郎は名前的に本当に歌舞伎役者の人かな?位何も知らずに見ていたのだけれど、この二人を見ていると何と言えない奥深さ、底の知れない深さを感じてしまったのは、やっぱりそれまでの人生が滲み出ているからだからか。

それとこの時代の日本映画はやっぱりセットも奥深い。セットなのに非常に奥まで作られ、時代の雰囲気が出まくっている。実際の町並みも古いままで残っているし。それを考えたら、戦争で古い建物が残ったのに、その後の潰して建ててのスクラップ・アンド・ビルドでその姿も残っていない現在って、とても皮肉だし、馬鹿馬鹿しさに呆れもする。

この映画、芸事に生きた不器用な男の哀しさも中々良いし、何より中村鴈治郎と市川雷蔵の強い存在感と演技に持って行かれる。派手でもないし、暗い話ではあるけれど、光る映画。

☆☆☆☆★

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