トゥモローランド

2018年12月24日 月曜日

ブラッド・バード製作・監督・原案・脚本、ジョージ・クルーニー主演の2015年のアメリカ映画「トゥモローランド(Tomorrowland)」。

1964年。少年のフランク・ウォーカーは万博の発明コンテストに出品しようとしたが相手にされなかった。
しかし、審査官と共にいた少女アテナに気に入れられてピンバッジをもらう。
そのピンバッジで科学技術が非常に発展したトゥモローランドへと行き着く。
現代。ケイシー・ニュートンは父親の仕事が無くなる事を思い、ケネディ宇宙センターの解体工事の妨害を行っていた事が見つかり逮捕。
直ぐに釈放され所持品を返却されたが、その中に見慣れないピンバッジがあった。
そのピンバッジを触ると、目の前に見た事も無い科学技術が非常に発展した都市が現れる。
ケイシー・ニュートンがそのピンバッジの正体を探り始めると、彼女の前にアテナが現れた。

この映画がずっとつまらないのは構成や展開の不味さと分かり難さだと思った。

始まりで少年の冒険モノで掴みにかかろうとするけれど、わたしは昔から、子供の時から「子供の冒険モノ」が嫌いなので掴まれないまま始まり、その後は急に主人公が変わってケイシー・ニュートンの話になるけれど、話の中心になって、ずっとその話をしているトゥモローランドに関しては何時になってもトゥモローランドとは一体何で、今はそのトゥモローランドをどうしようと何をしているのかの説明が無いまま進んで行くので、ずっと置いてけ堀。
知りたいトゥモローランドの事はアテナが「質問するな」「それ以上質問するとシャットダウンする」と言って、映画側が「説明なんてしないから黙って見てろ」と宣言するんだから、見ていてもドンドンと興味を無くしてしまい、どうでもいいや…になってしまった。
結局最後までトゥモローランドは何処にあり、何であんな驚異の科学技術があり、50年以上経っているのにトゥモローランドの科学技術が更に発展した様子が無いまま荒廃しているのかとかの説明は無いままで、トゥモローランドの説明に関してはほぼ無しで知りたい部分はずっとモヤモヤしたままで終わってしまう。

始まって一時間位経ってからジョージ・クルーニーが登場して、どうやらトゥモローランドはピンバッジが見せている科学技術の進んだ未来世界とは違うらしいという話になってようやく少し興味が出て来るのに、やっぱり詳しい説明が無く、ジョージ・クルーニーとアテネだけが分かって話をしているので、ケイシー・ニュートンと見ている方は置いてけ堀。
こんなに見ている方の疑問をほったらかしで、話を引っ張れると思ったのだろうか?

しかもケイシー・ニュートンは常にギャーギャー騒ぐうるさいガキで、見ててもうっとおしく、登場人物としても、狂言回しとしても、主人公としても引きが無い事。
この構成じゃあなくて、ケイシー・ニュートン部分も削って、もっと早くジョージ・クルーニーを出してジョージ・クルーニーで話を展開させた方がよかったんじゃないの?

分かり難さは現実との繋がりや比喩の部分が分かり難く、結局何を描いているのかが分かり難いという所からかも来ていると思う。
トゥモローランドと言えばディズニーランドや世界各地のディズニーのテーマパークにあるし、この映画がディズニー製作・配給なので現実のディズニーと比べて見てしまうけれど、それが分かり難い。
映画のトゥモローランドは正にウォルト・ディズニーが描いた未来世界であり、トゥモローランドはディズニーの比喩なんだろうけれど、そのトゥモローランドは選ばれた一部の人による排他的世界で、時代が経つと何故か荒廃しており、独裁的指導者が頭がおかしいヤバい奴として描かれていて、そんなディズニーに否定的な映画をディズニーが作っている意味がよく分からない。
ヒュー・ローリーは地球のお偉いさん達は耳を貸さないと言っているけれど、ディズニーって政府と関係が深くて、昔から献金とかロビー活動を積極的にしていて、むしろディズニーって現実ではお偉いさん側だし、その地球のお偉いさん達は金儲けにしか目がないというのも、むしろ昔からディズニーに対する批判として出ているモノじゃん。
この映画見ていても、誰が何処を向いて何を主張しているのかがゴチャゴチャしていて分かり難く、これらはそんな比喩や暗喩は関係無く単にトゥモローランドのユートピア的ディストピアと分かりやすい一般的批判だけなんだろうか?
よく分からなかったので監督でもあり製作や脚本もしているブラッド・バードを調べてみたら、色々すんなりと納得。
ブラッド・バードは14歳の時にウォルト・ディズニー・スタジオでアニメーション制作を学び、大学卒業後にディズニーに就職したけれど数年後に退職。
その後は「ザ・シンプソンズ」の制作に関わったり、ワーナー・ブラザースやピクサーでアニメーションの監督。
2006年にピクサーがディズニーの子会社になり、2007年の「レミーのおいしいレストラン」を監督。
という経歴でこの映画の製作・監督・脚本をしているので、この映画をブラッド・バードの自伝映画として見たら分かりやすくなったというか、わたしは妙に納得してしまった。
ブラッド・バードは少年の頃からディズニーに憧れて、理想を見てディズニーに入ったけれど出て行く事になり、外から見ると今のディズニーはかつての面影は無く、理想や夢を追いかけず、特定の人物による独裁によってダメになり、その崩壊したディズニーと今の世界をフランク・ウォーカーことブラッド・バードの俺様が全て救う!と理解したけれど、それだとそれでブラッド・バードの自惚れっぷりとオナニー感が半端ない映画になり、酷い映画になるけれど、結局はブラッド・バードの愚痴と自惚れにまみれた映画だと思うと、誰が何処を向いて何を言いたかったのかが結構分かる内容だと勝手に解釈した。

でも、色々はまらないは多かった。
トゥモローランドは、確かに1960年代から見た未来世界の映像だとは思うけれど、2010年代から見ると空飛んでいる部分を除くと現実と大して変わらない部分が多く、憧れの未来世界観が結構薄い。
それにトゥモローランドでは何で個人間の争いや憎しみが無く社会が問題無く回っているのかの説明は無く、科学技術さえ発展すれば理想の世界って、やっぱり古いSF。
しかし、その理想の社会もどうやら失敗したらしけれど、それも何故なのかの説明も無く、トゥモローランドの薄っぺらさと言うか、お座なり感が半端ない。まさに張りぼてで作られたアトラクション用のセットでしかない感じで一杯。

派手な場面を見せて盛り上がりを作ろうとして突然パリのエッフェル塔に行くけれど、これが取って付けた場面転換だし、エッフェル塔が割れてロケット発射とか急に馬鹿映画になって、白けまくった。

最後のネタバラシも、結局悪いのはお前らだ!で、何十年前のSFなんだという既視感たっぷりの説教。
しかも洗脳装置を壊せば地球は救えるとか、非常にお手軽な世界救済。

最終的にトゥモローランドは再始動し、集めて来る人間は夢を信じている人になったけれど、これはこれで危ういし、気持ちの悪いユートピア。
常に現実主義で懐疑的な人よりもトゥモローランド的には洗脳しやすくトゥモローランドを回すには都合が良いのだろうけれど、この映画の様にトゥモローランドや世界に問題が起きた時に現実を見て妥協的でも問題を解決しようとしても、実現が無理そうでも「いや、夢を諦めるな!」で無理が通りそうな世界になりそうだし、現実と向き合って夢を諦めた人は排除され、「夢を諦めるな!」で押し通されて頑張り続けないといけない世界って怖いよなぁ。

そう言えば、よく考えたら、あのピンバッジって触った場所が何でわざわざトゥモローランドの町の郊外から始まるのだろう?
現実の世界とトゥモローランドの位置が連動していたけれど、皆トゥモローランドを目指すだろうに、そうなると現実世界が見えないからフラフラして現実の町の道路に飛び出して自動車にひかれたり、崖から落ちたりもするじゃん。
ケイシー・ニュートンも階段から落ちて平気ではあったけれど、当たり所が悪ければ死ぬ可能性もあるし、あのピンバッジを作った人間は相当頭が悪いな。
逆にトゥモローランドで階段を降りたり、乗り物に乗って移動したりしているけれど、現実世界ではどうなっているの?という疑問は一切無視で、そこは描かない。
トゥモローランドで乗り物に乗っていた時に、何で現実世界で木に一切ぶつかっていないの?

あと、ケイシー・ニュートンが被っていた帽子は失くしては探し出す大事な父親の帽子で何かの象徴的に扱っていたのに、最後は単に風に飛ばされて失くしてしまって、特に何かの変化や決心を象徴もせず終わってしまって、この適当さは何?

この映画、話の軸になっているトゥモローランドを全然説明しないまま進んで興味を引かせない構成が不味かったし、人間が悪いだの、夢を持つ事が一番だのと単純化された擦り倒された説教臭い結末とか、不味さばかりを感じてしまった。
ブラッド・バードが監督をした「ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル」も見たけれど、そもそもこのシリーズ自体が無茶で強引でご都合主義が散りばめられている上に、製作でJ・J・エイブラムスが入っているのでしょうもない映画になるしかないけれど、それでもブラッド・バードのアニメーション映画の評価を見てしまうと、ブラッド・バードって実写映画撮らない方がいいんじゃないの?と思ってしまう。

☆★★★★

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